実は、オウンゴール?

ふだん私たちは「いのちがあるから、生きている。いのちは生命体。ひとつの個体が生きている。」と考えます。でも実は、そうではなく、生きていることを「いのち」と呼ぶ方がふさわしいのです。なぜなら、生きているという現象は、まわりの環境とのやりとりなしは、ありえないからです。いのちがひとつだけ、先にある、ということはないのです。

Inspire imagination.

エンパシームへの路(1)[経験のあとに意味が生まれる]

ここ至るまでには、多くの失敗、困難と葛藤がありました。また、多くの声援と激励、ご縁をいただいてきました。エンパシームに携わり、日々、声のことばをじぶんにむけて放って、じぶん自身の使命に気づくようになりました。それは、この時代においてこそ、技術と日常の実践をしっかりと結び、共感のつながる、あたらしい路をひらくことです。

共感素を、みんなでつくろう。

エンパシームによって、じぶんに身近な世界がこれまでと違って感じられるようになりました。きっかけは、さかのぼって、あとから生まれます。エンパシームで短いことばを声にすると、そこに後から意味が生まれてきます。ねがいとは、ねがう気持ちをくりかえすプラクティスのこと、そのものです。そして、それは植物のように育つものなのです。

英プラの路を共にゆこう (1)

学校で長い時間をかけて英語の勉強しますね。英語の教材や参考書、英語塾、英会話スクール、英語アプリ。数えきれないぐらいあります。ところが、これだけの時間と労力をかけているのに、英語の音は聞き取れず、じぶんから話すのはたいへんです。なぜ、なかなか身につかないのでしょう?なぜ、がんばる努力が報われないのでしょうか?

Why is that?

だるまちゃんのきもち(1)

小さいだるまちゃんと、小さいてんぐちゃんが遊んでいました。「それ、なあに?」「これは、てんぐのうちわだよ。」「ふーん、いいものだね。」

小さいだるまちゃんは、うちへ帰って言いました。
「てんぐちゃんのような、うちわがほしいよう。」
大きなだるまどんが、たくさんうちわを出してくれました。「こんなうちわじゃないんだけどな。」だるまちゃんは、いいことに気がつきました。

だるまちゃんのヤツデの葉っぱを見て、てんぐちゃんはいいました。「ずいぶん、いいものをみつけたね。」だるまちゃんはいいました。「うん、でもーてんぐちゃんはいい帽子をかぶってるね。」

共感の精錬(フォトエッセイシリーズ)

「共感の精錬」というテーマでつづるフォトエッセイ(13回シリーズ)です。サイエンス、アート、ヒストリー、フィロソフィー、テクノロジー。分野のわけへだてなく、想像を自在に結びあわせる試み。現代の文明社会をよりよく生きる手がかりは、すべての人の「じぶん」という資源を精錬することにあります。共感を精錬するプラクティスこそ。

共感の精錬 (14) 『丹生のみち、共感の精錬』(エッセイ)

「多くが感じられる」ためには、素のふるまいで共感が引き出される環境を、じぶんの身辺につくることである。その思いに駆られて『海の宮』のエッセイの数で十数冊分の日々を過ごしてきた。エンパシームを共通の資源として捧げる探究の成果と互恵協働のコミュニティが一歩ずつ進んでいる。谷川先生へのオマージュとして、この一編を捧げたい。

共感の精錬 (13) 付記 ② じぶんの心を映す

「多くが感じられる」ためには、素のふるまいで共感が引き出される環境を、じぶんの身辺につくることである。その思いに駆られて『海の宮』のエッセイの数で十数冊分の日々を過ごしてきた。エンパシームを共通の資源として捧げる探究の成果と互恵協働のコミュニティが一歩ずつ進んでいる。谷川先生へのオマージュとして、この一編を捧げたい。

共感の精錬 (12) 付記 ① 水銀・人間の心・エンパグラフ

サイエンスの力、テクノロジーの力、アートの力、そして素のふるまいの力。これらは調和をもって合わせることができる。その思いをこの文章にこめた。「ひとつぶ」の共感を日常の中で身につける小さな素振りの力によって、何かがすこし違って見えたり、聞こえたり、感じられ たりする、未知の可能性を私は信じている。

共感の精錬 (11) サイエンス/アート/フィロソフィーをプラクティスに結いあわす

現代の文明社会をよりよく生きる手がかりは、すべての人の「じぶん」の中にある。きっかけは、思いが精錬され、実感に変わる時である。じぶんを資源として、きっかけは後から遡ってできる。その縁をもとにして新しい源泉ができる。ひとりのじぶんが資源になり、素材になり、未知の可能性になるという循環の回路をみんなでともに歩むことができる。