
私たちは、自分の中に何か欠けたものがあると考えますね。でも本当は「じぶんに」何かが欠けているのではなくて、じぶんの存在する世界を忘れているのです。じぶんを包んでいる世界。じぶんもその一部であることを忘れているのです。じぶんのミッシングピースを探すのではなく、じぶんがミッシングピースになっていることに気づくことです。
絵本「さかなはさかな」から学べること。さかなが、さかなにそなわった力を活かして生きているように、私たち人間も、想像したり、共感する力を活かして生きています。私たちは、絵本の中のさかなの気持ちになれます。さかなの身になっているじぶんに気づくことができます。人間に備わった「共感の力」を活かせば、創造の世界が広がります。
中国の古典『荘子』に収めらた「知魚楽」のエピソード。魚の気持ちがわかるか?は、他者の気持ちがわかるか?と同じ質問です。はい、察することができます。私たちには、目に見えないものを感じようとする力、じぶんと結びつける力が備わっています。共感の力です。科学の探求も目に見えないものに、親しみを感じるようとすることが大切です。
私たちは、じぶんだけ夢を見ているのでしょうか?いいえ、おなじように夢を見ている人がいます。 私たちは、みなひとりひとりだけれども、決してひとりぼっちではありません。 共に感じる心でつながっているのです。ジョンレノン「イマジン」と孔子「論語」に共通のことば。じぶんを信じて生きなさい。 必ず、共感する人がいます。
じぶんひとりが頑張っているのではない。じぶんと共にあるものがある。それは、エンパシーです。「相手」を感じること、ふれあっていること。共感の相手は人間に限りません。光も水も風も、じぶんの相手になり、共にある時があります。私たちはつねに、いろいろな物事に支えられている。そのことを思い出す時、じぶんの存在に気づくのです。
人間の体を構成する細胞は60兆個ですが、微生物は腸内だけで100兆個。腸内はサンゴ礁のような生態系 (マイクロバイオータ)です。腸の活動は、気分やふるまいと相互に作用しています。腑におちるとか、ガッツフィーリング(腸の感覚)ということばがありますが、頭で考えてもわからないことを「腸のじぶん」は知っているのです。
「人間は考える葦」で知られるパスカル『パンセ』。「動物や植物とは違って、考えることができるから、人間は偉い」という意味ではありません。パスカルは言います。「葦を押しつぶすのは、一滴の水でできる。人間はじぶんの弱さを知るからこそ、尊いのだ。」心をひらいて共感することが先にあって理性を包み込んでいる。それが心の理性です。
やさしい心のおこない。それは相手を思う気持ちをことばに出すことです。声のセリフを演じることがあなたの脳を養います。ひとつ、具体的なプラクティスを紹介します。エンパシームで「知行合一」(身をもって、実際に体験して、知ることで行動となり、行動になって本当に知る)ができます。やさしさを表すセリフを声にして身につけることです。
論語は、倫理道徳を教える儒教の経典と言われますが、実は、人びとが共に、よりよく生きるためにどうしたらよいかを、孔子が弟子たちにやさしく説いた、具体的な行動の指針です。孔子は、知識以前に、恕(じょ)が最も大切である、と説きます。それは、相手の身になること、共感の心です。そして、じぶん自身をも思いやる心だと言うのです。
恕じょとは、じぶんが人にされたくないことは、人にもしない、思いやり。仁とは、 自他のわけへだてをしない、いつくしみ。大切なことは、たくさんあります。あれもすべし、これもすべし。でも、いっぺんにできません。順に学び、実践していくのみ。まず大切なことは、何かひとつ、はじめにすること。いつも、そこに帰ってこられる、原点が、恕。
ゆるすとは、ただ忘れよ、ということではない。問題の出来事を覚えているかどうかではなく、それをどのように思い出すか。ゆるすとは、人のあやまりを容認することでも、あやまりを正すことでもない。相手が関わっていてもいなくても、ゆるすことはできる。また、ゆるしたら、だれかの責任が消えるのではない。ゆるしは、じぶんの心、その姿勢。
オスカー・ワイルド作『幸福な王子』(The Happy Prince)。自己犠牲、無私の善行、心を通わせる友情の物語としてよく知られます。動けない王子の目となり、耳となり、手足となって働くツバメ。ふたりの行為は、共感。いのちを捧げて人助けをする道を共に歩んだのです。じぶんたちが存在することの意味を共に生きたのです。
親切。切るという字をつかうのは?刃物に触れるぐらい、身近か、という意味から。親切にするとは、相手に近づいて、 手を差し伸べたり、寄りそうことです。互いに近くに感じられる時が、親切な心。一方的に「近い」ということはありません。何かをしてくれても、共に歩むだけで。何をしてあげられなくても、そばにいるだけで、親切になれます。
アリにはアリの、チョウにはチョウの、サクランボにはサクランボの世界があります。みなそれぞれちがう、じぶんの世界を生きています。生物にとって、意味あることだけが知覚されます。ユクスキュルはそれを環世界 と呼びました。「行動は刺激に対する物理反応ではなく、環世界あってのもの。」私たちはじぶんという風土を生きているのです。
チャールズ・ダーウィンは『進化論』で、生物の進化のしくみを説いただけでなく、家の庭で40年間、土の世界を研究し、ミミズが土を耕していることを明らかにしました。身のまわりの小さな不思議に目をむけると、そこに驚きと発見の世界があります。じぶんという存在も土のようなもの。じぶんがじぶんの相手になれば未知の世界に出会えます。
ライプニッツは、宇宙の、これ以上、わけられない最小の単位を「モナド」と呼びました。人間の自分、「私」ではありません。宇宙のあらゆる物事のじぶんです。ミミズでも砂でもモナドのじぶんです。宇宙は共感の結びつきでできています。私たちは、つながりあう宇宙に生まれてくるのです。このじぶんも、つながりあったモナドのひとつです。
宮沢賢治『インドラの網』と早田文蔵の描いた華厳経の「高次元分類ネットワーク」インドラの網とは、無数の宝珠(ほうじゅ)が結びあい、ひとつひとつがたがいに映しあうという、大乗仏教(華厳経)の宇宙観を表すメタファです。私たちは、インドラの網のようにつながった「共感の宇宙」に生きています。夜の大空を見上げるだけで実感できます。
ティク・ナット・ハンは、言います。「一枚の紙は、多くの要素の結実であるように、ひとりの人間は、その個人ではない要素で成り立っている。」私たちは Inter-being「相互的存在」です。そのような存在である、じぶん自身と関わることが、本来の「瞑想」の意味です。「もの」に共感することは、存在の本質に関わることなのです。
言語の本質は、外界の事物を客観的に表現することではない。ことばのやりとりが、他に比類のない情報伝達手段であるのは、それ以外では達成不可能な参与者の共感をもたらすからである。他者の動作やしぐさを人間が共鳴するがごとく体感できること。共感がことばの原点であり、下地になった。相手が「私」より先にあったのです。
共感はじぶんの心の証。共感は共に生きること。相手とおなじふるまいをすること。共感は同感ではない。共感は同情ではない。共感は自分の気分や考えを投影して相手を「理解する」ことではない。共感は、じぶんの内なる体験にふれ、心の存在であることを実感することから。相手の心によりそおうとするふるまいが、じぶんの心の証。共感は心の鏡。
「隈もなく 澄める心の 輝けば 我が光とや 月思ふらむ」 月と夢の歌人、明恵上人。隅もないほどに澄んだ心を月が見て、じぶんの光だと思うかもしれない。明恵上人自身が月になり、世界を見ています。宇宙に包まれ、私たちはいつも共に感じる「相手」と暮らしています。想像こそ。夢は、想像の宝庫。物事を結びつけて発想を生み出す場です。
耳順(耳したがう)とは?①(人のことばをじぶんの声にかえる)
孔子は60歳の還暦を「耳順」(耳したがう)と言いました。なるほど、素直に人の話を聞き入れられるというのは大変なことなんだな、と。でも、ちょっと変な気もします。聖人が60年の歳月をかけ、ようやく、耳がしたがうようになったというのです。それほどの時間がかかるもの?だれもがふだんから「聞き入れている」のではないでしょうか?
孔子は耳順(みみしたがう)を人間円熟の形式だと考えた、と小林秀雄さんは言います。知識を増やすのに時間がかかると言ったのではなく、世の中は、時をかけて、みんなと一緒に暮らしてみなければ納得できない事柄に満ちている、だから本質的なのだ、と。円熟は耳順の別の表現。耳順は他者と共に生きる意味をかみしめる、心の円熟を表すことば。
スピノザは、「人間の本質は、その人の自然な力が発揮されることである。」と言います。そして、「どのように生きよ」という道徳や教育よりも、じぶんが手持ちの力で生きることを倫理として説きました。私たちには、相手と同じような存在であるという感覚、他者に共感できる力があります。それは制約の中でこそ活かすことのできる最大の力です。
おいしーい !と言わずには食べられない時ってありますよね。じんわり、しみてきて、ほんとうに、おいしい。五感のすべてが活かされています。ことばを声にすることで、しっかりと味わうことができます。実感とは、ひと息、ひと口、ひとふりサイズの、ことばで心に映すこと。それを写し取って、あじわうことです。
じぶんとは、ひとつぶの宇宙。リチャード・ファイマンの詩。「ゆりかごを離れ、こうして今、乾いた土地に佇む私は意識ある原子。好奇の目をもった物質。思惟することの驚異に打たれ、私は海辺に立ちつくす。その私は、原子の宇宙、宇宙の中の原子。」原子たちはもうとっくに入れ替わっているのに、一年前に私の頭の中に起こっていたことを思い出せるとは。」
ライアル・ワトソンさんは言います。「科学者としての私は「太陽があるから光が見える」という。しかし、私の新しい理解では「私が見ているから太陽は光である」といってもおなじように真実であることを示唆する。われわれは地球の目であり、耳であり、われわれの考えることは地球的思考だ。」私たちは、「じぶんと空気のあいだ」に生きています。
絵本『わすれられないおくりもの』。アナグマからの贈り物は、残してくれた「声のことば」です。ひとりひとりが思い出して、生活に活かせる「ことば」です。ことばは、共に過ごした時間の結晶。共に感じた体験が、いつでも、現れてきてくれることです。みんなの心の中にアナグマは生きています。みんなが思い出すという行為の中に生きています。
佐伯胖さんは言います。「 世の中にはあなたの助けを待っている人がたくさんいます。そういう人たちに「何か」をしてあげてください。私たちは、期待を寄せてくれる人たちに共感することで「学び」に駆り立てられます。自然界の物事があなたが心を寄せて「いまだに知られていないこと」を「知られるように」してくれるのを待っているのです。」
音素(Phoneme)は、組み合わて言語を構成する単位。エンパシーム(Empatheme)も、これにならい、共感 (Empathy) という現象の最小単位になるという意味です。それがなぜ「共感の素」なのか?共感という現象は、自然にわき起こる気持ち、無意識的なものです。相手に共感しているじぶん自身に後から気づくものです。
ユージン・スミスは水俣の人々と共に暮らし、被害者家族との関係を築きながら「ミナマタ」を表現した。「絵や写真が直接、病気を治癒したり、世界を変えたりはしないが、共感の心にかたちをあたえ、よびかけ、それをわかちあえる力ははかり知れない。」エンパグラフィも同じ思いである。エンパシームは小さな声、共感のかけら、[いま] の証。
谷川健一先生の著作には、実証的な方法の上に想像力を働かせれば、目の前の世界とつながることができるという秘密が惜しげもなく語られている。じぶんという人間が、大地の母とも、いのちの宇宙とも、確実につながっている。共感のまなざしで、世界とふれあう、かかわりあうことができるのだ。わけへだてなく、じぶんで、まなぶ力の源泉。
数学者・岡潔はこう言います。「他の悲しみを自分の悲しみとするというわかり方を道元禅師は「体取」(たいしゅ)と言っている。理解は、自他対立的にわかるのであるが、体取は自分がそのものとなることによって、そのものがわかることである。」共感することは、体取して、まなぶことです。じぶんが相手の身になった時、「わかる」のです。
ピーター・ゴドフリー=スミスさんは言います。「タコは、相手(人間のこと)を実によく知っている。気に入らないと嫌がらせをしたり、いたずらしたりする。しかも、人間の反応を「楽しんでいる」かのような行動をとる。」世界は、もともと自他が連続しているのです。「心」というつながりの中で、みな共に生きています。そのことを学びながら。
サラマンダーが水面にのぼり、パクッと空気を吸ったかと思うと、またもぐって水中をゆらゆら。倒れた木の肌にそって泳いだり、藻にくるまったり。なんとも言えず、うれしい気持ちになります。これぞ、知魚楽の共感!心はじぶんの外側に広がっています。外側の広がりを感じることが内側の深まりになり、内側が深まると外側はもっと広がります。
花は蜜を出し、ミツバチの食糧を支えます。ミツバチは花のタネを運び、花のいのちをつなぎます。共に「いのちをつなぐ」営みを助けあっているのです。 じぶんひとりではなく、相手との協働。相互関係の中に生きています。 アフォーダンスは、環境が人間に与えるもの、力。実はそれだけでなく、人間も環境に対して、あるものを生み出せます。
「共感の精錬」というテーマでつづるフォトエッセイ(13回シリーズ)です。サイエンス、アート、ヒストリー、フィロソフィー、テクノロジー。分野のわけへだてなく、想像を自在に結びあわせる試み。現代の文明社会をよりよく生きる手がかりは、すべての人の「じぶん」という資源を精錬することにあります。共感を精錬するプラクティスこそ。