髪も共に生きている

いったん、気になりだすと、気になって仕方がないもの、たくさん、ありますね。

ずいぶん、伸びてきた。早く、かみを切りたいなあ!

突然伸びてくるわけではありませんが、ある長さの範囲を超えてから、気にさわるようになってきますね。

私の頭髪。自分の所有物、私の身体の一部、ということになっていますが、自分ではまったくコントロールできません。これから髪を伸ばすぞ、などと言ったりもしますが、それは自然に育つのを待つだけです。

自然に生えてきます。植物とおなじです。できることは、手入れをするだけです。見守って、ケアする、相手として。いつも、いっしょにいて、頭を守ってくれる。私にスタイルをつけてくれる友ー

共感をのせるパレット

先人のことば、「いまを生きる」知恵。
それらをどのように受け取り、じぶんと結びつけて活かしたらよいのでしょうか。

中田孝次さんは、こう書いています。
われわれにとって本当に必要なのは、一人の哲学者の思想体系全部、一人の文学者の作品すべてというようなものではない。一人の哲学者の、ほんのわずかな言葉、一人の文学者のほんのわずかな言葉、それが自分の中に入って、核となって、根を下ろし、そこから根がはえていくときに、それが自分のものになる。

そして、ゲーテのことばを引きます。
「世の人は常に独創の話をするが、どういう意味だろう。生まれるとすぐ、世界は影響し始め、死ぬまでつづく。一体エネルギーと力と意思と以外に自分ものがあるか。もし私が偉大な先駆者や同時代の人に負うた点を一々あげることができたら、残るところは極めてわずかだろう。(エッケルマン『ゲェテとの対話』)

希いの中に生きている

ヴィクトール・フランクルは、こう言いました。

「これは事実の報告ではない。体験記だ。内側から見た、強制収容所。壮大な地獄絵図は描かれない。
おびただしい小さな苦しみを描写しようと思う。」

「スピノザは『エチカ』の中でこう言っている。
「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表彰したとたん、苦悩であることをやめる」

愛語を思い出す

愛語あいごよく廻天かいてんのちからあることを学すべきなり

愛語とは、やさしいことばをかけることです。親しみの心を抱くような心のこもったことば、愛語には、天地をひっくり返す力があるというのです。

道元禅師『正法眼蔵』45巻の中の「菩提薩埵四摂法」(ぼだいさったしっしょうほう)の巻。そこに、菩薩行(ぼさつぎょう)すなわち「悟りのための」修行のエッセンスがあります。それは四つの行いです。

布施ふせ。見返りなく、あたえること。

愛語あいご。やさしいことばをかけること。

利行りぎょう。人のために自分を忘れて尽くすこと。

同事どうじ。わけへだてをしないこと。

春花秋月これ心なり

大和和尚さんとの対話から。

春歌しゅんか秋月しゅうげつこれ心なり。

りっこう:「花も月も心だ! 」というのですね。
大和:そうです。心の働く様子が、花であり月である。
り:心とは、じぶんと春花秋月のぜんぶだと。
大:はい。『正法眼蔵』はそのオンパレードです。
り:自然宇宙世界が、一枚の詩画になっています。
大:道元さんが生涯をかけて取り組んだ主題です。弟子にむけて語ったことばでできた、絵のような詩です。

内語をふるまう

「考えをうまくことばで表現できない」などと言いますね。このように言うと、発話に先立って思考があるように聞こえます。
信原幸弘さんはこう言います。
考えるとは、発話すること。
内語を行うことが思考。

内語とは、声なき声で語られた発話、いわば音量ゼロ出力の、内なる発話 (Inner Speech) です。

坐って、何もしない。

「行住坐臥」(ぎょう・じゅう・ざ・が)ということばがあります。これらは、人間の身体の基本姿勢です。そのなかで、坐は、ひとり静かに坐ること。坐るというと、坐禅を思い浮かべるでしょうか。

古来より、ブッダにおける禅定、古代インド諸宗教の瞑想坐、ひとり静かに坐ることが人間の精神にとって根本的であるということを示しています。

『荘子』にも「坐忘」ということばがでてきます。
「端座して一切を忘れ去り、道と一体になった境地」という意味です。

大和和尚との対話から。
り:何のために坐るのでしょうか?
大:「何のために」はありません。
り:ただ静かに坐り、何もしない。
大:そうです。

おくりものは共感体験

絵本『わすれられないおくりもの』より。

誰もが頼りにしていたアナグマの死期が迫っていました。アナグマは、自分が死ぬことを恐れてはいません。死んで体はなくなっても、心は別の形で残ることを、知っていたからです。

「最後の雪が消えた頃、アナグマが残してくれたものの豊かさで、皆の悲しみも、消えていました。アナグマの話が出るたびに、誰かがいつも、楽しい想い出を、話すことができるように、なったのです。

写す出力が学び

白川静さんは、こう語ります。
「手で書くこと。手先から脳へ打ち込む。もちろん、目で見ることは必要です。写すこと、書くことがそれ以上に必要であり、重要です。

私は若い時に日記を書いておったのですが、書くことがない時や、余白が出た時にはそこへ、詩や漢文を写して、余白を埋めていたんです。面白いことに、漢文を写しているうちに、漢文が読めるようになったんですよ。流し読みしただけでは頭に入らない漢文が、書き写すことで、文法や語法的な関係とか理解できるようになっていきました。