エンパレットのカテゴリー Nurture 心を養う

わけへだてはいらない [心は自由]

胡蝶こちょうの夢という話があります。「ある時、夢の中で蝶になり、じぶんが荘周であることを忘れていた。ふと目が覚める。荘周が夢で蝶となっていたのか、蝶が荘周となっていたのか。」身のまわりの自然に心を寄せるだけでおのずと想像力は働きます。蝶の気分になれる時、それは夢であり、現実でもあります。本来、心は自由。わけへだてはいりません。

Inspire imagination. ひらめく。

いつでも会える [共に感じる世界]

絵本『いつでも会える』は、飼い犬が飼い主をなくす話です。犬のかなしみが人間のかなしみを語ります。犬のよろこびが人間のよろこびを語ります。犬の心と人間の心とがつながっています。犬の気持ちになって、じぶんによりそう、ということができるのです。相手の身になると、じぶんに寄り添えます。私たちは共に感じる世界に生きているのです。

心の地図を歩いている(3) [トレイルの楽しみ]

サン・アンドレアス大地溝帯の真上にある森林トレイルの路上に、ひらりと舞い降りた一匹の蝶!地図でじぶんが歩いたトレイルを指でなぞると記憶がよみがえります。英語のtrail は、大地に足跡ができるように、線をつなぐ、という動詞。トレイル空間にいるじぶん。身体内の脳にある「身体運動地図」。そこにじぶんの姿が写っています。

Imagine your trail.(じぶんのトレイルを思い描いて)

I’m humbled. [心のとびらをひらく]

「I’m humbled. じぶんが謙虚な気持ちになれるという意味です。ありがたいと思える時。共感を抱く気持ち。物事を素直に受け入れる時、心のとびらがすっと開きます。humbleになれば、未知の可能性が生まれます。それは、じぶんに気づくこと。声に出して言ってみましょう。静穏の空気に声が響く時、humbleになっています。

共に食べている [じぶんを見る目が変われば世界は変わる]

草食動物は草だけ食べてなぜあんなに大きくなるの?お腹にセルロースを分解する微生物が住んでいてタンパク質をつくりだすからです。お互い助けあい、共に生きているのです。ふだん私たちは、ものごとをバラバラに見ることに慣れています。じぶんとのつながりで見ると、見え方が変わります。じぶん自身を見る目が変われば世界は変わるのです。

Change the way you look at yourself. Then the world will change.

空気つぶの海で生きている [音って何?]

音って何?空気分子が運動してできる気圧の変化のこと。空気つぶの動きが波のように伝わり、濃淡ができます。耳は速い気圧変動を敏感に捉えます。あなたの声も声帯のふるえでつくる気圧の変動。私たちは、空気のつぶの海の中で暮らしているのです。エンパシームは、目に見えない空気つぶの動きを、見えるようにイメージにして表現します。

We live in the sea of air particles.(空気のつぶの海の中で暮らしている)

「人生の目的は幸福」ではない

人生の目的は幸福ではない。ラルフ・エマーソンは言います。「人の役に立ち、活かされること。人の敬愛に値し、すべての物事に、思いやり、慈しみ、共感の心をもてること。生きたという実感をもてることである。」幸福が人生の目的だと漠然と思い込んでいると、肝心な「行動」を忘れてしまい、「幸福の道」ができにくくなるのかもしれません。

Sense your way. (歩む実感を)

だれもが相互存在のじぶん

ティク・ナット・ハンは、言います。「一枚の紙は、多くの要素の結実であるように、ひとりの人間は、その個人ではない要素で成り立っている。」私たちは Inter-being「相互的存在」です。そのような存在である、じぶん自身と関わることが、本来の「瞑想」の意味です。「もの」に共感することは、存在の本質に関わることなのです。

Clouds are floating in the paper.(この紙の中に雲が浮かんでいる)

共感をあじわう [フルーツとことば]

おいしーい !と言わずには食べられない時ってありますよね。じんわり、しみてきて、ほんとうに、おいしい。五感のすべてが活かされています。ことばを声にすることで、しっかりと味わうことができます。実感とは、ひと息、ひと口、ひとふりサイズの、ことばで心に映すこと。それを写し取って、あじわうことです。

Savor empathy.(共感はあじわうもの)

共感がことばの原点 (じぶんに気づく)

言語の本質は、外界の事物を客観的に表現することではない。ことばのやりとりが、他に比類のない情報伝達手段であるのは、それ以外では達成不可能な参与者の共感をもたらすからである。他者の動作やしぐさを人間が共鳴するがごとく体感できること。共感がことばの原点であり、下地になった。相手が「私」より先にあったのです。

It is as hard to see one’s self as to look backwards without turning around.