時のかけら [エンパシーム原初体験]

5歳の春。小高い丘陵をのぼっていくと、そこは矢じりの宝庫でした。キラリと光る黒い石は、時のかけらでした。何千年か前にここで暮らしていた人の、時のかけら。じぶんが矢じりになっていた、夢中のかけら。それらは、もうありません。いえ、記憶のかけらになりました。なんどもふりかえることで、じぶんの、時のかけらになっていたのです。

You’re always carrying your time capsules with you.

ひとりになるから、わかる

静かにひとりで「ふりかえる」時間の力。その力で、ふだん刻々と過ぎ去る体験を、味わい、かみしめることができます。それはひとりでないとできません。ひとりになることは時にさみしいけれども、それが共感の力を引き出すに糧になります。じぶんの代わりにはだれも生きられない。でも、みんながおなじように、「ひとりのじぶん」なのです。

No one can live in my stead. But I am not alone.

じぶんへのアート、じぶんからのアート。

エンパシームは、じぶんのアート、じぶんへのアート、じぶんからのアート。それは、こんなふうに見えます。挿絵のような絵図、音符の連なった楽譜、文字や記号を添えた詩、じぶんだけの姿勢の鏡、そっとよりそう小さな手紙、声のタネを蒔く土壌、花を育てる花壇、プラクティスの手帳、心がつながる路、など。アートとは自由にうつすこと。

Just be yourself.(じぶんになる)

じぶんに手入れをするプラクティス [あゐてにふすいま]

ものごとが続かない理由は、空気抵抗や摩擦に似ています。私たちはふだん、やればできるはずとか、続ければいいんでしょ、と思いがちですが、それだけでは、摩擦や抵抗を無視して、また補助や補給を考えないのと同じです。体を動かす時には水を補給します。何かを続けるには、摩擦や抵抗を減らし、補給をする必要があります。自然の理です。

プラクティスのしやすさ

リーダビリティ (Readability) は、文章の「読みやすさ」を表すことばです。「よみにくさ」を取り去り、相手が読みやすいように配慮すること。日々のプラクティスも、これとおなじように考えられます。じぶんのプラクティスを、相手だと思って、やりやすくするのです。相手だと思う配慮がプラクティス習慣を持続させる秘訣です。

Make things easy.

おこないが、じぶんを決める。

私たちは、まずじぶんがあって判断や行動がある、と思っています。でも実は、その反対です。行動がじぶんです。じぶんのアクションが集まって「おこない」になる。私たちは、そのおこないで、できている。救命士のジョンさんは言います。「救命室の中のじぶんなんてね、行動あるのみ。じぶんがとる行動がじぶん。それ以外に、じぶんってだれ?」

My true belongings are my actions.

いのちのふれあう空気

フラワーアーティストのウジさんは言います。「花屋というのは店の花を捨てるんです。売れない花は、処分せざるを得ませんからね。私はそれがイヤで独立しました。今はお客さまへ直接お届けする花だけを扱う、花ブリエです。」ウジさんから頂いた牡丹に、潜り込む蜂!庭に咲いたのは大きな牡丹。いのちのふれあう空気は、いつも和らいでいる。

Be yourself.

じぶんという素材でつくる

「カリフラワー」の料理のレシピからのヒントです。「ゆで方ひとつで、カリフラワーがごちそうに。塩とおいしい油があれば、素材本来の味を最大限に引き出すことがきる。」じぶんという存在もまた、固有の素材です。それを活かせるような、レシピや、調理場や、友と出逢えることを信じて、じぶんをつくるのです。

You’re self-made.(じぶんでつくるじぶん)

作法を共にする道具があるからこそ

エンパシームは、スマホとしてじゃなく、スマホの存在と、周りの空気と、あなたの小さなふるまいで生まれます。作法のためのテクノロジーです。静かにすわり、気持ちをやわらげて。自然な流れにゆだねて、心をこめて、ゆっくりふるまうだけです。エンパグラフにあなたの姿勢と声と気持ちが映ります。伴走者のような道具の手助けがあるからこそ。

No one can live in your stead.(だれの代わりにも、生きられない)

We are all connected [つながりを生きている]

ツツさんのことばに耳を傾けてみましょう。ことばは、身体を使って出し入れする音声のつながりが、意味やイメージとつながり、さらに記憶や想像とつながる現象です。つながりとは、そのようにして、人びとの心がふれあうことです。私たちはすでに、世界とのつながりを生きています。生きることは、つながりに気づくことです。

We are all connected.(わたしたちはみな、つながっている)