身体に丸ごと取り込むことからこそ(覚えることの二重の誤解)
どんな学びも最も基本的な動作を覚えない限り、何も習得できません。野球ならキャッチボール、料理なら包丁の使い方、ふだんの生活にはことばが使えること。それらを丸暗記とは呼びません。身体に丸ごと取りこみ、文字に頼らず言えるようになること。声に出すことで脳の処理が活性化します。古来より最も確実で信頼性の高い学びのメソッドです。
Practice what you learn.(知識は実践して身につけるもの)
どんな学びも最も基本的な動作を覚えない限り、何も習得できません。野球ならキャッチボール、料理なら包丁の使い方、ふだんの生活にはことばが使えること。それらを丸暗記とは呼びません。身体に丸ごと取りこみ、文字に頼らず言えるようになること。声に出すことで脳の処理が活性化します。古来より最も確実で信頼性の高い学びのメソッドです。
Practice what you learn.(知識は実践して身につけるもの)
イエラ・マリさんの絵本「Il Tondo(まるい、まるい)には文字がありません。ページをめくるだけで、楽しそうな声が聞こえてくるからです。エンパシームも似ています。静かにすわる空間で、ひとつ円を描くとエンパシームができます。エンパシームの中の、色とりどりの玉は、声のつぶの連なり。色は音、声は絵。どちらもまるい形の中に。
Our heart is round.(心はまるい)
キーボードで文章を書く時、スペースキー(間をいれる)と削除キー(さかのぼって削る)の使用頻度が圧倒的に多いことに、ふだんは気づかずにいますね。つくることは、削ること、磨くこと。書くという行為は、書いてから削っていくこと。考えとは、はじめからあるのではなく、素材をじぶんの身体から出して、それを減らしていくものです。
Less is more.(削り減らすと深まる)
天神講で聞いた紙芝居『青の洞門』。了海は、ひとりでトンネルを掘り続けます。来る日も来る日も、休むことなく、危険な岩壁を、のみ一本で掘り進むのです。物語りにすっかり引き込まれ、じぶんも了海になっていました。いまでも、紙芝居を演じてくれた、五年生のお姉さんの声が聞こえてくるようです。そして、海の色が蘇ってくるようです。
Your voice remembers you.(声が覚えている)
幼年・少年期(本当は生涯を通して)声に出して「ものがたり」を体験すると、後々、大きな力になります。読み歩み、読み語りあい、共に感じる時間。英語ではRead aloudと呼びます。声に出すことで「共に感じる」体験が共有され、見えない体験として、身心に刻まれるのです。それは、生涯の贈り物を一緒に手づくりでつくる体験です。
We are making our own stories.
言語の本質は、外界の事物を客観的に表現することではない。ことばのやりとりが、他に比類のない情報伝達手段であるのは、それ以外では達成不可能な参与者の共感をもたらすからである。他者の動作やしぐさを人間が共鳴するがごとく体感できること。共感がことばの原点であり、下地になった。相手が「私」より先にあったのです。
It is as hard to see one’s self as to look backwards without turning around.
記憶があるから、思い出すのではありません。思い出すから、記憶になるのです。思い出すのは、脳がひとりでやっているわけでありません。道具の手助けなしには、なかなかでてこないものです。記憶は「つながり」です。つながりによって、その都度、アウトプットされてくるものです。50年以上前の、一枚の写真からのエピソードです。
We don’t remember days. We remember moments.
ふりかえって声にだしてはじめてカタチができる。ふりかえらないと、じぶんに気づけません。ふりかえりを身につけると、何かに夢中だったということに後から気づけます。そんなふうに、気持ちは後から生まれてくるもの。好きになろうとしているじぶん自身に気づけば、じぶんが変われます。それが続けられるチカラの中で、いちばん大きなチカラ。
Love what you do.(好きになろうとするチカラ)
私たちはいつも、まわりのチカラに助けられています。ひとりでいても、ひとりではありません。気づいていないだけです。例えば、空を見上げて、おもしろい形の雲だなぁと思う時。じぶんとおなじように感じる人がいます。その雲のおもしろいと感じるのが、世界にじぶんひとりだけとは思いませんよね。今度空を見上げたら想像してみましょう。
Serve others.(人のために)