愛語には驚くほどの力がある
道元禅師『正法眼蔵』は、四つの行いを説きます。布施(ふせ)見返りを求めない。愛語(あいご)やさしいことばをかける。利行(りぎょう)自分を忘れて人に尽くす。同時(どうじ)わけへだてをしない。愛語は今できます。人からかけてもらった、やさしいことばを思い出して下さい。そのことばを声にして発するのです。驚くほどの力があります。
Thanks you. (ありがとう)
道元禅師『正法眼蔵』は、四つの行いを説きます。布施(ふせ)見返りを求めない。愛語(あいご)やさしいことばをかける。利行(りぎょう)自分を忘れて人に尽くす。同時(どうじ)わけへだてをしない。愛語は今できます。人からかけてもらった、やさしいことばを思い出して下さい。そのことばを声にして発するのです。驚くほどの力があります。
Thanks you. (ありがとう)
道元禅師『正法眼蔵』のことばから。心は山であり、河であり、大地である。心は太陽であり、月であり、星である。存在しているものすべてが心。元来、ことばはわけへだてをするもの。だから、囚われやすく、すぐわけへだてをしてしまいます。具象的な自然を、みる、きく、ふれることです。想像するという行為を、姿勢に組み込むことが必要です。
You’re not alone.(じぶんだけではない)
道元禅師の『正法眼蔵』に、「前後際断」ということばがあります。起きている時と寝ている時では、時間と存在のあり方がちがう。冬が春になるのではなく、春が夏になるのでもない。冬には冬のあり方、春には春のあり方がある。生もその時のあり方である。死もその時のあり方である。その時は、その時としてある。今という時を生きているのです。
Death is within life. (死は生の内側にある)
The heart is counting up, not down, until the final beat.(鼓動は、カウントダウンではない。いのちがたたまれるその時まで、数えあげている)
まなざしがことば。手の温もりがことば。指に入れる力がことば。うなづきの間がことば。耳を澄ます静けさがことば。声をしぼり出す息がことば。口を動かす気配がことば。ことばが届いたとわかる仕草がことば。半身が動かないことでも、声が出せないことでもない。いま向きあっているのは、持てる力を使い尽くし、今の生き方で生きている母の姿。
Life enfolds.(いのちは、内側へたたまれる)
道元禅師『正法眼蔵』のことば「松も時なり、竹も時なり」。あらゆる存在のひとつひとつに世界があります。時がなければ、山も海もない。山も海もなければ、時もない。時間と存在は一体です。時は経過ではなく、存在の表す働き。ふだんは忘れていますが、ひと息にのせた声、ひとことのことばが、生きていることを感じる時間の最小単位です。
I am time.(じぶんの存在が時間)
日常生活のルーティン、例えば、歯磨き。覚えている、ということを忘れているぐらい、身についています。自分ひとりでやっているのではなく、環境と共に覚えているのです。寝る前、洗面所に行けば、自然に思い出せる。鏡や歯ブラシは、そこにあることで合図を出しています。思い出や想像も環境とやりとりによって、記憶として現れてくるのです。
You don’t need to remember all the things. They remember you. (なんでも覚えようとしないで大丈夫。まわりが覚えていてくれる)
坐禅は、静穏に坐り、なりきる姿勢をつくります。大和和尚は言います。「仏の行いをしている時、人は仏になっている。仏になるために修行するのではありません。プラクティスしている時だけが、仏。英語耳°トレイル®も、禅の「なりきる」に倣います。手本のセリフの全体感をまねます。まねて、なりきって、似せられたかを比べて確かめるフローです。
Act of Becoming.(なりきる)
Good morningは「おはよう」と習います。が、これだと肝心な、ことばの心がわかりません。もとは、I wish you a good morning. です。あいさつとは、ねがいをことばにして相手に投げかけることです。それを身につけるには、知識ではなく体験。あいさつをする行為です。心の行為がセンスを磨くのです。
Good morning.(いい日でありますように)
エンパシームは、共感的想像力の発揮を作法に変え、日々のプラクティスにします。『正法眼蔵』の体現です。道元禅師は、作法を身につけることが安らかに生きることだと説きます。学習もおなじです。例えば、じぶんを知るとは、じぶんを知ろうとする行為そのもののこと。じぶんを忘れて周囲とふれあうことです。自己の修養とは、共感の作法です。
What matters most?(いちばん本質的ことは?)
「自己を忘れる」は忘れる話というより、むしろ、忘れる体験を思い出すことです。端的に言うと自然に親しむことです。正法眼蔵には、親しむということばがたくさん出てきます。例えば「山河の親切」。共感的な想像を英語でempathy(エンパシー)と言います。相手を思いやる状態、親しくふるまう行為が「自己を忘れる」修養になるのです。