Empathemian, Stevens Creeks Lookout Trail

Practice Empatheme.(エンパシームでプラクティス)

立:だれにでもできる修養。日常的なコンテクストに置いて考えてみましょう。
大:ええ。そもそも仏道とは「安らかに生きるプラクティス」を日常にみちびくものです。
立:たとえば、先入観を捨てよ、とか、固定観念に囚われるな、とよく言います。
大:自分を忘れて、というのは、自分の心だとか、考えだとか、そういうところから出発すると必ず頓挫します。
立:それはじぶんが世界のおかげて存在する、つまり、っていることを想像することだというのですね。
大:山があるじゃないか。川があるじゃないか。それをそれとしてみることが、忘れることです。
立:忘れよう、忘れようと気張ることではないのですね。
大:それ自体、じぶん中心とちっとも変わりませんから。

立:もっと端的に、自然に親しむこと、というふうに思ったらわかりやすいかもしれません。
大:ええ、現に、正法眼蔵には、親しむということばがたくさん出てきます。
立:そういえば、「山河の親切」ということばがありました。
大:自然はじぶんに親切です。
立:そういうことに気づくことが、親身になることでしょうか。自力=他力、というか。
大:そもそも、自己とは、他者・世界との関係においてしか、意味をなさない存在です。
立:じぶんとは、自己と他己との関係においてなんだ、を思い出すことだ、と。
大:そうです。縁起(つながり)があるから、存在になる(と思える)わけです。
立:身心を脱落させる、というのは、そのような次元で捉え直す、ということですね。
大:そうです。単に、忘れる話ではないのです。忘れるというより、「忘れる」を思い出す、が半分。

『正法眼蔵』現成公案

立:親しくふるまうことでいいんですね。親身になる、相手を思いやる状態は、英語でいうと、empathicです。
大:なるほど。あなたがなぜ、そのような小さな修養を実践するコンセプトに、エンパシームという命名をしたかわかりました。
立:共感的な想像力を引き出すための作法であり、技術であり、心の素だからです。
大:一瞬一瞬の、エンパシーが引き出される時・場を捉える。それを人間も機械もおなじようにできる「手助け」ですね。
立:共感的な想像のことを英語でempathy(エンパシー)と言います。辞書にも、このようにでてきます。

Empathy: the imaginative projection of a subjective state into an object so that the object appears to be infused with it.

(じぶんの状態を周囲のものに投影し、あたかもそのものと一体になっているかのように感じられる想像)

大:エンパシーの本義には「自己を忘れる」があるわけですね。
立:はい。それはあらゆる他己、森羅万象の力を借りること。それが共感の源。
大:「正法眼蔵」は、思想の詩画です。実は、共感的な想像力のプラクティス道場だったんですよ。

・自己をならふなり learn one’s self

・自己を忘るるなり unlearn one’s self

・Learn to unlearn your “self” (じぶんを忘れるプラクティス)

・Unlearn to learn your “self” (そのふるまいによって、じぶんというものに気づく)

自己をならふというは自己をわするるなり③ [忘れるとは、相手の存在をイメージする共感的な想像力]

自己をならふというは、自己をわするるなり①[心身脱落は「じぶんを忘れよ」ではない]

安らかに生きるプラクティス[仏教ではなく、仏法]

「フローをおこし、後でふりかえる」

結びつけることば [アインシュタイン博士の=]

共感素を、みんなでつくろう。

出典・参照:道元『正法眼蔵』現成公案、「大和和尚との対話」(仏法ニコニコ講話 坂口立考編集)

エンパレット検索で、unlearnを入れてみてください。関連するエンパレットがでてきます。

「正法眼蔵」