Empathemian『Act of Becoming』

Act of Becoming.(なりきろうとする行い)

プラクティス「なりきる」真意について。
大和和尚さんとの対話から。

立考:只管打坐しかんたざと言いますね。(*注1)
大和:坐禅です。
立:禅のコア・プラクティスですね。
大:その通りです。
立:何を練習しているのでしょうか?
大:なりきることです。
立:坐ることに、ですか?
大:はい。
立:身体の形が心の形をつくるということですね?
大:すべての行いが「行」つまりプラクティス。
立:その中心に坐禅がある、と。
大:そうです。
立:身心トレーニングなんですね。
大:はい。ただし、坐禅そのものが目的です。
立:何を鍛えているかというと。
大:身心です。もちろん、脳を鍛えることでもありますが。
立:もう少し、具体的に言うと?
大:囚われから離れることです。
立:囚われということばが必ずでてきますね。
大:別の言い方をすれば「依存」です。
立:何に依存しているのでしょう?

Empathemian, 『Act of Unlearning』

Be purposeful.(思いを抱いて)

大:行仏威儀ぎょうぶついぎということばがあります。(*注2)
立:仏の行いをするという意味ですか?
大:はい。日常生活において、仏のように、という意味です。
立:そのように心得よ、と。
大:仏にならうこと。まねることです。
立:なるほど。
大:仏の行いをしている時、人は仏になっています。
立:そのプラクティスしている時だけが、仏なのですね?
大:そうです。仏になるために修行するのではありません。
立:仏は、目的でも結果ではないのですね。
大:ちがいます。仏になりきろうとしている時だけです。
立:仏をまねるプラクティス=仏。そうなりますね。
大:はい。仏とは、囚われのない存在。
立:囚われてない状態、と言ってよいですか。
大:何にも依存していない状態です。
立:何かを求めようとする時、依存してしまうのですね。
大:「悟るために何をすべきか」と考えるのではありません。
立:私たちは、常にそのように考えてしまいますよね。
大:そうです。修行とは悟りというゴールを目指す手段ではないのです。
立:そのように身心を働かせるには?
大:修行です。プラクティスでありトレーニング。ただし、それらのわけへだてがありません。
立:つまり、行為そのものが目的として一体化していると。
大:そうです。
立:坐禅は、ひたすら坐ることですよね。
大:静穏に坐り、他に何もしない。
立:坐るだけ、ですね。
大:なりきる姿勢そのものになるのです。
立:なりきる=依存から離れる。
大:その通りです。

Empathemian, 『Act of Embracing』

Be evidenced.(証を立てて)

立:エンパシームの英語トレイルでも「なりきる」に倣っています。
大:それはいいですね。
立:手本のセリフをひとつひとつまねます。
大:なるほど。
立:役になりきって、セリフの音の全体感をまねます。
大:声音こわねをまねるわけですね。
立:そうです。いちばん大切なのはリズムです。
大:リズムをまねると手本に似てくるわけですね。
立:はい。手本に似せられるようになると、聞き取れるようになります。
大:聞いているだけでは、聞き取れるようにはならないのですね?
立:その通りです。そしてじぶんで確かめる必要があります。
大:手本とじぶんの声音と比べられるのですか?
立:はい。文字に依存せず、じぶんで出した声のセリフを手本と比べます。
大:まさに、修証一如しゅしょういちにょですね。(*注3)
立:まねて、なりきって、それを比べて確かめる、というフロー。
大:禅のエッセンスに倣ったわけですね。
立:ええ。坐禅はしませんが、静穏に坐るフローがあります。
大:人間の身心の制約から、坐するのが最も理にかなっています。
立:エンパシームはじぶんの「なりきる」姿をふりかえれます。
大:エンパシームが親身にみまもる存在になるわけですね?
立:そうです。練習風景を垣間見れば、そっと背中を正すような促しもできます。
大:自覚を促す、と。
立:なりきって手本に似せようとする自覚がカギです。
大:なるほど。

縁乃路『なりきる』

Be fully engaged.(なりきって)

立:なりきる目標と自覚ができると、「なかなかうまくいかない」体験が生きてきます。
大:その過程で上達するのですね。
立:倣い事です。うまくできない体験が自己改善の機会そのものですから。
大:教わってばかりだと、気づかぬうちに、「正解」を求めてしまいますね。
立:はい。それが依存につながるわけです。
大:そうすると上達しにくくなってしまう。
立:そうならないように、しくみが察して、促せるように。
大:上達しない原因を減らすわけですね。
立:まさに。そのようなプラクティスの核心部分が統計データにして、プラクティスする人どおしの支えに。
大:なるほど。エンパシームという名のとおりですね。
立:はい、しくみ自体がプラクティスの状態を察して、その人の自覚につなげる。
大:エンパシーは、相手を察するとか、相手の身になる、という意味でしたね?
立:そうです。そういう心の出来事を捉えて、しくみ(コンピュータ)も察するし、じぶん自身でもその証(データ)を使えるように。
大:それでエンパシームという造語をつくったのですね。
立:もうひとつ、じぶんのプラクティスにも、共に歩む他者にも寄り添える、という意味も込めています。
大:共感の力、エンパシー。
立:人間に備わった力ですから。
大:それが、プラクティスの完遂、継続を支えるわけですね。
立:はい、囚われとか、依存とか、じぶんでは気づけないですし。補助がいります。
大:人間の行いの原理は普遍なのでしょうね。

禅と言語習得 ②「 不立文字」(文字依存が機会を奪う)へつづく

出典・参照:以下のエンパレットなど

(*注1)只管打坐しかんたざ「ただひたすらに坐る」禅宗のコアプラクティス。

(*注2)行仏威儀ぎょうぶついぎ:道元『正法眼蔵』第6巻「行仏威儀」

(*注3)修証一如しゅしょういちにょ:実践とは、行為の証をつくること。ふりかえって、確認して、自覚してはじめて、実践。

英語の「音を聞き取り、音で伝えられる」

坐って、何もしない。(忘れている状態をつくる)

しない力

従容 ① みちびくガイドとなる [方便は相手のため]

作法そのものが学習である[すべてに共通するエッセンス]

All you need is love. 誤解を超えて (3)修証一如