共に読み、語り、歩む冒険

『ジップくん宇宙へとびだす』が忘れられません。
ジップくんがテレビの中に吸い込まれ、電波にのって宇宙へ飛びだしてしまうという話です。

忘れられないのは、内容よりも、姉が読み聞かせてくれたことです。5歳の時です。いっしょに宇宙に飛び出して、冒険した気分でした。

私は「宇宙へとびだす」というフレーズが好きでした。時々、思い出すことがあります。先日も、トレイルを歩いていて、オーク樹林の木漏れ日の間から青い空がのぞけた時に、なぜか、このフレーズが思い浮かびました。深い理由はありません。

あべこべの気分になれる

雨が降ると、カサを持って出かけないといけないし、雨がやめば、そのカサを電車にわすれてきたりもします。服も濡れるし、湿度が高いと、気分に影響します。
でも、こどもの頃、雨がうれしかった思い出はありませんか。雨が降ると、あそびの場が広がります。

長ぐつで、水たまりにはいったり、カタツムリをシゲシゲと眺めたり。

雨の降る河原には、いろんな生き物がでてきます。
どこから来たんだろう、と思うぐらいに。

こんな絵本があります。『カエルのおでかけ』です。

そとは、どしゃぶりの「いいてんき」。
カエルは、うきうきおでかけ。
そうです、カエルにとっての「いいお天気」は、雨の降る日です。

エンパシームは体験の光粒

エンパシームは「時のつぶ」です。そのつぶには鮮明な光彩があります。それはじぶん自身への「共感する」の「時のつぶ」です。いろいろなきっかけで、エンパシーム同士が、つながりあうようになります。

5歳の夏休み、ある体験がありました。ホタルとりです。「ホーホーホータル、こい。こっちのみーずはあまいぞ。」ホタルに呼びかけます。

渓流のせせらぎ、草の匂い、カゴと網。真っ暗な田んぼのあぜ道を歩いていきます。一匹のホタルが、どこからともなく舞ってきたと思うと、次の瞬間には、ここにもあそこにも、現れます。草むらの中にも輝く光に、そおっと近づいていくときの高揚感。

なろうとするから、わかる。

森田真生さんは、こう言います。
「松のことは松に習え」ということわざがある。松のことをほんとうに知りたかったら、自分がすっかり松になるくらい、全身で松のことを思いつづけないといけないのである。あたまだけで、なにかをほんとうに知ることはできない。

あたまで「この人は悲しいんだな」と理解することが、悲しみを知ることではない。相手といっしょになって、自分まで悲しくなったとき、はじめてその人の悲しみがわかる。知るということ、わかるということは、自分ではない相手の心と、深く響きあうことなのだ。

数学をわかることも、これに似ている。ただうまく計算したり、知識を増やしたりするだけじゃない。
数や図形の声に耳をかたむけ、心かよわせあうこと。

ゆだねる、ひたる。

「生ハム・メロン」とよばれる料理があります。
ほどよい大きさに切ったメロンに生ハムがのり、オリーブオイルのかかった、シンプルな料理です。

スペイン産・イベリコ豚の熟成生ハムはJamón (ハモン)、イタリア産の生ハムはprosciutto (プロシュート)と呼ばれます。生ハムにメロンをあわせるのか、メロンに生ハムを添えるのか、いずれにせよ、オリーブオイルとあわせた、3つの素材が調和して、それぞれの風味を引き立てます。

はじめて、完璧に熟れたメロンスープの中に、熟成ハモンと出逢った時のことです。衝撃的でした。

メロンスープの海に浸っている!

地球とサッカーボール

の:ねぇドラえもん、ナノってどれぐらい小さいの?
ど:10億分の1とかいってもピンとこないよね?
の:わかんない。すごく小さいんでしょ。
ど:じゃ、地球はどれぐらい大きいと思う?
の:わかんない。すごく大きいよ。
ど:のびちゃん、地球になったつもりで、いいかい?
の:地球?いいよ。
ど:このサッカーボールぐらい。
の:へぇー、小さいねー
ど:クロトーさんの絵本にあるよ。

心の人

ラスコーやアルタミラよりさらに1万年以上古い、フランスのショーベ洞窟。アルプスがまだ氷に覆われていた時代に、このあたりには多くの動物と人間が暮らしをともにできる、氷の谷間でした。壁画の描かれている洞窟は、入り口から何百mも入った奥まったところにあります。

発見者で研究を指揮してきたジャンマリー・ショーベさんはこう言います。

人間は、「ホモ・サピエンス」(知の人)というよりも、「ホモ・スピリチュアレス」(心の人) だ。

「動物を描く」ということはとても人間の精神にとってとても根源的なこと。生きているものを描くことそのものが精神的な営み、心のできごとです。

相手の星になる

上田閑照『生きるということ』の一節より。

きれいな空のある晩、星を見るともなく眺めていると、たまたまあるひとつの星になんとなく集中していた。その時に、ふと奇妙なことを思いついた。あの星に誰かがいてもしこちらをみていたとしたら、私にあの星が見えているように、向こうの誰かにもこちらがみえているのかなと思ったのだ。

そうすると、またかわって、私があの星にいるような感じがした。私があの星にいてこちらの地球を見ていて、こちらの地球があの星のように見えている。いや、いまあの星が見えているそのままが、あの星にいる私に地球が見えていることだ、という感じ。

心の世界は五感を結いあわす

古池や 蛙飛こむ 水のおと

『松尾芭蕉・奥の細道』について、長谷川櫂さんは、このように説きます。

  

「ふつうこの句は、古池に蛙が飛びこんで水の音がしたと解釈されるが、本当はそういう意味の句ではない。「古池や」「蛙飛こむ水のおと」の順番にできたのではなく、最初に「蛙飛こむ水のおと」ができて、あとから「古池や」をかぶせた。このうち最初にできた「蛙飛こむ水のおと」は、じっさいに聞こえた現実の音を言葉で写しとったもの。

一方、「古池」は現実の古池ではない。なぜなら、蛙が水に飛びこむ音を聞いただけで、蛙が水に飛びこむところは見ていないから。芭蕉は、蛙が飛び込む音を聞いて古池を思いうかべた。「古池」は「蛙飛こむ水のおと」が芭蕉の心に呼び起こした幻影。」