Empahemian『スイスイ』飯能市・名栗川渓流

アメンボがスイスイ。気持ちよさそうです。

見えますか?小さな円が5つ、影に映っています。

春の小川。岩で水の流れがせきとめられた所で、アメンボが水面を自在にすべっている光景です。

そういう気分が、想像できます。

もちろん、アメンボの世界は、私たちの世界とは違っていることでしょう。でも、きっと同じような気分はあるのだろう、と想像します。

人間はだれでも、物事をただそのまま受け入れて「感じる」のではなくて、実は、どのように受けとめるかという「ふるまい」を身につけています。小さい頃から知らないうちに学び、身につけて、それを人と共有しています。

イマニュエル・カントは、こう説きました。
人間は、経験する前に、どう受けとめるかの形式を持っている。時間や空間も、経験に先立つ形式のことである。

物事を認識したり、理解したりする時の内容以前に、捉え方の形式がある、というのです。 私たちの日常的なものの見方は、まず、対象となる物事が先にあって、それを認識しているのだ、と感じますよね。

でも、実はそうではない、話は逆だ、とカントは言うのです。
物事が「ありのまま」に入ってきて、それが認識されるのではなくて、時間、空間という形式が先にあり、それに従って認識しているのだ、と。

こんな実験をしてみましょう。
(1)目の前に、ひとさし指を上向きに出してみてください。
(2)すこし上からのぞくようなかんじで、左向きに(反時計周りに)くるくると回します。
(3)次に、くるくる回しながら、天にむかって持ち上げていきます。
(4)らせん階段みたいですね。回転はとめないでください。
(5)手が頭の上まできましたか?下からのぞくかんじです。
(6)いま、指はどちら向きに回っていますか?
(7)右回転ですね?時計回りです。
あれ?いつの間に、反対向きになったのでしょう?

くるくる回す指には、何の変化もありませんでした。
どこから見たかで、反対になってしまいました。
つまり、見る形式にしたがって、対象の「認識」が変化したのですね。

私たちは、人間固有の認識形式を持っています。
それは、体験と想像の働きによって、自然に身につけたものです。

アメンボ、スイスイ。

でも、アメンボの身になってみると、ぜんぜん、ちがいますよね。

スイスイと感じられるのは、人間に備わった共感の力。

出典:イマニュエル・カント『純粋理性批判』