無意識はじぶんの土台

「意識」って何ですか?何かと言われても説明に困りますね。脳科学の話に興味はあっても、だんだん話が複雑になってきて、よくわからなくなります。起きて活動している時は「意識があります」というぐらいの認識です。はて?無意識の反対が意識?

ほとんどは「無意識」なんですよ、私の日常は。
いいえ、無意識は「意識がない」ことではありません。意識も無意識も、環境と相互に作用しあう身体の働きであり、そのあらわれです。刻々と変化する状態の全部をあわせて「心」と呼んでいます。脳の中に「意識」とか「無意識」とか「私」という何か、実体が入っているのではありません。

推測するじぶん

「私たちは、ふだん気づいていない潜在能力である「適応的無意識」(*注)上で行動し。生活している。」
ティモシー・ウィルソンさんの『自分を知り、自分を変える』の原題は、Stranger to Ourselves。「私たちは自分という土地に不慣れな人」という意味です。

「人間の心の働きで、意識はとても小さな部分。言ってみれば、私たちはじぶん自身に対する他者。高度に洗練された無意識と、意識が互いによりそって、世界を解釈しながら生きている。」
「周囲の世界が私たちに直接影響するのではなく、その世界をどう受け入れ、意味を感じ取っているかの解釈が影響する。それは無意識的に形成される。」

身をもってつくる、じぶん情報

西垣通さんは、こう言います。
「情報とは、知識の断片のような実体ではなく、関係概念である。人間、生物にとっての意味作用が情報。共感も実体ではなくて、関係概念である。」

じぶん自身が関わること、そのつながりや結びつきによって生まれる意味作用を情報とよぶのですね。

養老孟司さんも、このように言います。
「情報化することと、情報処理の作業はまったく違います。情報化とは、パターンを認識して、それを言葉にすることです。データ生成、データ処理だけでは情報化ではありません。たかが一匹の虫のことを書くだけでも、情報化とはえらく大変なことなんです。」

ホモ・エマパテマ 共感する存在

これまで、人間の本質を表すことばが、数多くつくられてきました。

・ホモ・サピエンス(知性をもつ存在)
・ホモ・ファーベル(ものをつくる存在)
・ホモ・ルーデンス(遊ぶ存在)
・ホモ・ロクエンス(ことばを話す存在)
・ホモ・モビリタス(動く存在)
・ホモ・ソシアリス(集まる存在)
・ホモ・レリギオスス(祈る存在)
・ホモ・エステティクス(趣味人)
・ホモ・ピクトル(描く存在)
・ホモ・ムジカ(音楽人)
・ホモ・エコノミクス(経済人)
・ホモ・ポリティクス(政治人)
・ホモ・リデンス(笑う存在)
・ホモ・パテイエンス(痛みを持つ存在)
・ホモ・クレアトール(創造する存在)

I’m humbled.

アートさんにたくさんある、Seedから。
I’m humbled. (humbleな気持ちになるよ)

humble (ハンブル)とは、「謙虚な」という意味です。「あの人は謙虚な人」というふうに。
I’m humbled. というと、じぶんがそのような気持ちにさせられる、謙虚になれるという意味です。
じぶんには、もったいないこと、ありがたいな、と思える気持ち。

共感の力が発揮されている時なのです。

物事を、素直に受け入れることができるのは、じぶんが humbleになっている時です。何かに共感を抱く気持ちは、物事を素直に受け入れる、心のとびらになります。

思う以前に感じる

泣くから、悲しい。震えるから、怖い。
ウィリアム・ジェームズは、感情と動きの関係について、このように説きました。常識を覆す発言としても知られます。「悲しいから泣き、怒るからなぐり、恐ろしいから震えるのではない。その反対である」と。

身体心理学・春木豊さんは、こう語ります。
「動きと心の因果関係は、常識的には、「はじめに思い、次にそれを行動に移す」と考えられている。この考え方は非常に強固である。一方、思う前に動いているという事実は、日常体験からも常識であろう。

一枚の葉っぱ

一枚の葉っぱが手に入ったら、宇宙全体が手に入ります。

日本画家・小倉遊亀(ゆき)が大切にしたことば。
師・安田靫彦(ゆきひこ)の座右の銘。

小倉さんは言います。
「見た感じを逃さないように心掛けて行けば、その都度違う表現となって、いつの間にか一枚の葉っぱが手に入りますよ。そして、一枚の葉っぱが手に入ったら、宇宙全体が手に入ります。

「絵を描くことは坐禅と同じ、対象に宿る美しさを発見するためには、無心に物を見る態度を養わなければならない。」

しあわせとは共に感じる道

アリストテレスは、人間の理想とすべき幸福について説きました。
それは、「善き心」という意味の、「ユーダイモニア」ということばで知られます。

幸せは、人生のゴールでしょうか?

なんとなく、人生のゴールは、幸せになることだ、とどこかで聞いた気もしますね。

しかし、そもそも、人生のゴールというものを、じぶんひとりで持てるのでしょうか?
じぶんひとりの「幸せ」は、あるのでしょうか?

やさしそうで、むずかしいこの問いに、カントは明快に、こう説きました。

道徳とは、幸せになるための教えではない。幸福にふさわしいふるまいをするための教えである。
「哲学を学ぶ」のではない。哲学することを学ぶのである。

小さな、ひと時の鏡から。

松下幸之助『道をひらく』に収められた「心の鏡」の一節から。

「身なりは鏡で正せるとしても、心のゆがみまでも映し出しはしない。だから、人はとかく、自分の考えやふるまいの誤りが自覚しにくい。心の鏡がないのだから、ムリもないといえばそれまでだが、けれど求める心、謙虚な心さえあれば、心の鏡は随所にある。自分の周囲にある物、いる人、これすべて、わが心の反映である。わが心の鏡である。すべての物がわが心を映し、すべての人が、わが心につながっているのである。」

じぶんとあいて

大切なこころの糧は、われとなんじの体験。

神谷美恵子さんの『こころの旅』から。

人間は過去からの蓄積なしには新しいものを創り出す素材にさえこと欠く。何もかもはじめからひとりで創り出すということはありえず、文化への新しい貢献も過去の人々の業績や同時代の人びとからの啓発や協力によって、生まれてくるのだとすれば、「学ぶこと」の大切さは文化や歴史をつくる上で、

こころの世界をまとまりあるものとするため、はかり知れない。