ぼんやり、ひとやすみ。

虫明元さんは、こう言います。
「求められる知識が指数関数的に増加しているが、学校や社会における学びはその速度に追いつかない。我々の知識は細分化・専門化が進み、その知識は認知スキルとよばれ、教育の一番の目標になっている。時代に適応した生き方を考えなければいけない。

虫明元さんは、3つの共感性を挙げます。

(1)感覚運動的共感性(ミラーリング、動作や表情の模倣)

(2)情動的共感性(具体的な他者の情動表現を見ただけで、よろこびや悲しみなど様々な情動に共感するしくみ)

(3)認知的共感性(他者(のそれぞれ個人)がどう考えているか(信念という)を理解する共感性

ふるまいで変われるじぶん

ある学生さんと、こんな雑談をしました。

りっこう:好き嫌いある? 嫌いな食べ物とか。
学生:えーと、〇〇がきらいですねー。
り:ほう、〇〇が。
学:XXだから。苦手です。
り:なるほど。でも、知らないうちに変わるかも。
学:うーん、どうですかね。
り:これまで、XXっていう重みづけがされてきたんだ。
学:重みづけですか?
り:そう。重みをつける。脳でね。無意識的に。
学:そうなんですか。
り:無意識のじぶんが「好き嫌い」に映っている。
学:自分がしていることなんですよね?
り:重みづけが変わればね、別に嫌いでもなかったんだとか、好き・嫌いの話でなかった、とか思うかもしれないよ。

タコの身になる

タコの生態なんかで、人間の心がわかるんですか?共感?下等な動物の共感的な情動はあるだろうね。

つい、そういう「常識目線」で考えていますよね。

ピーター・ゴドフリー=スミスさんは、海の底に潜る哲学者。生物学、心理学など幅広い研究をするダイバーです。深海でタコとふれあい、共にじっくりと時を過ごしながら「心」について考えます。『Other Minds (ほかの心)』では、驚くような事実が紹介されます。

スミスさんは、こう言います。
「タコは、相手(人間のこと)を実によく知っている。気に入らないと、嫌がらせをしたり、いたずらしたりする。しかも、人間の反応を「楽しんでいる」かのような行動をとる。

無意識はじぶんの土台

「意識」って何ですか?何かと言われても説明に困りますね。脳科学の話に興味はあっても、だんだん話が複雑になってきて、よくわからなくなります。起きて活動している時は「意識があります」というぐらいの認識です。はて?無意識の反対が意識?

ほとんどは「無意識」なんですよ、私の日常は。
いいえ、無意識は「意識がない」ことではありません。意識も無意識も、環境と相互に作用しあう身体の働きであり、そのあらわれです。刻々と変化する状態の全部をあわせて「心」と呼んでいます。脳の中に「意識」とか「無意識」とか「私」という何か、実体が入っているのではありません。

推測するじぶん

「私たちは、ふだん気づいていない潜在能力である「適応的無意識」(*注)上で行動し。生活している。」
ティモシー・ウィルソンさんの『自分を知り、自分を変える』の原題は、Stranger to Ourselves。「私たちは自分という土地に不慣れな人」という意味です。

「人間の心の働きで、意識はとても小さな部分。言ってみれば、私たちはじぶん自身に対する他者。高度に洗練された無意識と、意識が互いによりそって、世界を解釈しながら生きている。」
「周囲の世界が私たちに直接影響するのではなく、その世界をどう受け入れ、意味を感じ取っているかの解釈が影響する。それは無意識的に形成される。」

感情は感覚の意味づくり

感情とは何でしょうか?
自然に起きる気持ちのことですよね? 何か外部に原因があり、その刺激に対して、内部で反応すること。
一般に、そう思われていますが、少し違います。実は、「感じる」という現象は、外界に起きていることを身体で受け取った感覚の「意味の産物」です。

リサ・バレットさんは、このように説きます。
「感情は、意味を生成する作用(シミュレーション)によって、つくられます。シミュレーションは、精神作用・心理現象の基本設定モードです。心拍とおなじように、無意識的、自動的におきています。

環境は共感的な世界

ユクスキュルは、こう説きました。

生物種ごとに住む世界のイメージは異なっている

アリにはアリの世界、チョウにチョウの世界、サクランボにはサクランボの世界がある。みな、それぞれちがう、「じぶんの世界」を生きているのです。

生物にとって、意味あることだけが知覚されます。ユキュスキュルはそれを、環世界 (Umwelt) と呼びました。「行動は刺激に対する物理反応ではなく、環世界あってのものだ」というのです。

ひるがえって、私たち人間はどうでしょうか。

ふるまいのメソッド

矢田部英正さんは、『からだのメソッド』で、こう語ります。

古来、日本人の態度として、人間の力によらないものについてはあえて意味づけをしない風習のようなものがあった。ある意味それは自然に対する畏敬の念からでもあったろうし、人知をこえたところで働いている秩序に対して、人間の理解可能な理屈のなかだけで向き合おうとするの不遜な態度であると、昔の人はそう考えたからかもしれない。

ふるまいが、ことば。

身ぶり、手ぶりと言いますね。だれかと話をする時、自分では気がつかないけれど、いろいろな身ぶり、手ぶりをついています。もちろん、姿勢も表情も、声の調子や間合いも。その全体がことばになっています。

私たちの身ぶり、手ぶりはジェスチャーとも呼ばれますが、ジェスチャーは、音声言語と同期し、コミュニケーションの重要な通路になっていることが知られています。

マイケル・コーバリスさんは、「言語は呼び声からではなく、手、腕、顔のジェスチャーから進化した」という説を唱えます。野生の動物の観察や人間の言語の研究、特に、霊長類の行動・コミュニケーションの進化の経緯などを研究し、このように言います。

ピタゴラスのそら豆

ピタゴラスの定理。幾何学を習えば必ず出てきますね。ピタゴラスは、ドレミファソラシドという音階の発明者でもあります。1オクターブとは8個という意味ですが、ドからドは音の周波数が2倍になります。
音を整理してならべる音律の法則。それが、人間なら誰でも美しいと感じるコンセプトになっている。不思議ですね。音は自然現象、整数比は人間の概念。それもシンプルな算数で。

ピタゴラスが鍛冶屋のそばを通りかかった時に聞こえてきた「相づち」の音を聞いてひらめいた、という伝説があります。和音の起源は相づちだったのです。