坐って、何もしない。

「行住坐臥」(ぎょう・じゅう・ざ・が)ということばがあります。これらは、人間の身体の基本姿勢です。そのなかで、坐は、ひとり静かに坐ること。坐るというと、坐禅を思い浮かべるでしょうか。

古来より、ブッダにおける禅定、古代インド諸宗教の瞑想坐、ひとり静かに坐ることが人間の精神にとって根本的であるということを示しています。

『荘子』にも「坐忘」ということばがでてきます。
「端座して一切を忘れ去り、道と一体になった境地」という意味です。

大和和尚との対話から。
り:何のために坐るのでしょうか?
大:「何のために」はありません。
り:ただ静かに坐り、何もしない。
大:そうです。

呼吸はやすらぎ

本間生夫さんは、こう言います。

「呼吸する力は歳とともに老化します。呼吸筋や肺が老朽化して呼吸機能が衰えてくると、この機能的残気量(安静状態でいつも通りの呼吸をしているときに肺に残っている空気の量)が増えてきます。

近年は年齢にかかわらず「浅くて速い呼吸」をしている人がたいへん目立ちます。仕事や家事で時間に追われ、心がやすらぐ間もなく非常にせわしいリズムで生活をしている人が多いため、呼吸にもそういう「せわしいリズム」「余裕のないリズム」になりがち。呼吸のせいで老化している人は多いのです。

呼吸は「体を整える窓口」であり、「心を整える」ことです。

無意識はじぶんの土台

「意識」って何ですか?何かと言われても説明に困りますね。脳科学の話に興味はあっても、だんだん話が複雑になってきて、よくわからなくなります。起きて活動している時は「意識があります」というぐらいの認識です。はて?無意識の反対が意識?

ほとんどは「無意識」なんですよ、私の日常は。
いいえ、無意識は「意識がない」ことではありません。意識も無意識も、環境と相互に作用しあう身体の働きであり、そのあらわれです。刻々と変化する状態の全部をあわせて「心」と呼んでいます。脳の中に「意識」とか「無意識」とか「私」という何か、実体が入っているのではありません。

推測するじぶん

「私たちは、ふだん気づいていない潜在能力である「適応的無意識」(*注)上で行動し。生活している。」
ティモシー・ウィルソンさんの『自分を知り、自分を変える』の原題は、Stranger to Ourselves。「私たちは自分という土地に不慣れな人」という意味です。

「人間の心の働きで、意識はとても小さな部分。言ってみれば、私たちはじぶん自身に対する他者。高度に洗練された無意識と、意識が互いによりそって、世界を解釈しながら生きている。」
「周囲の世界が私たちに直接影響するのではなく、その世界をどう受け入れ、意味を感じ取っているかの解釈が影響する。それは無意識的に形成される。」

無意識の力を活かす

ティモシー・ウィルソンさんは、こう言っています。
人間には、無意識のうちにきちんと働く、潜在的な能力が備わっている。

私たちは、ことばを意識レベルで理解しているのではありません。相手が発する一連の音の流れを解析したり、奥行きのある世界の対象物をいちいち分析して、理解しているのでもありません。

意識的にアクセスできない心的な過程を「適応的無意識」(The Adaptive unconscious)と呼びます。人間の能力には、意識して発揮しようとするとうまくいかず、むしろ流れに任せて身体を動かした方がうまくいくものがあります。潜在的だけれども、意識して発揮するのがむずかしい力。それは、知らないうちに働いていて、自分の行動にも影響している力です。

その場になれば、思い出す。

「ルーティンを忘れることもありますよ。」
あるテニスプレイヤーのコーチから聞いた話です。

コート、天候、対戦相手、自分の調子。いろんな状況がある。選手は状況に応じて心を落ちつけられることが大切。無意識にできるように、日々練習を積んでいる。決まった所作を繰り返して身につけることで、「覚えている」ということを忘れているかのように。それが、ルーティン (Routine) 、「作法」です。

私たちの日常にも、実は色々なルーティンがあります。例えば、歯磨き。わざわざ、覚えていなくても、忘れることはほとんどありません。覚えている、ということを忘れているぐらい、身についています。