フローをおこし、後でふりかえる

「聞くままに また心なき 身にしあらば をのれなりけり 軒の玉水」(道元禅師)雨が降っている。雨水の音に聞き入っている間は、自分を忘れていて、 雨は意識にのぼらない。ふと、われにかえり、じぶんが雨と一体になっていたことに、あとから気づく。夢中になるフローと、それを自覚できることが、人間に備わった力を引き出すことです。

Let it flow.

じぶんの中にコロンブスの卵を見つける

アンドレ・マルティネが唱えた「二重文節の原理」はコロンブスの卵です。人間のことばは、音声の最小単位「音素」と、意味の最小単位「形態素」の両面で機能しています。音素という限られた数の表現を組み合わせ、無数のパターンを生み出せます。マルティネがこの事実を発見し、原理として唱えるまでそのような考え方はありませんでした。

Find your Columbus’s Eggs.(じぶんの中のコロンブスの卵を見つける)

ひとりじゃない、みんなおなじ。

エンパシームは、じぶんの修養風景を鏡のように映します。また、それだけではなく、じぶんとおなじような友に寄り添うことができます。人間に備わった力。それは、だれもが、いま、こうして共に生きている、という存在の力です。その力は、共感の力。目には見えないけれど、感じることができます。声を思い出して、心でふれあうことができます。

You are not alone.(ひとりぼっちではない。みんなおなじ)

間をつくること、生きていること。

「間」というのは、生きていることを確かめる時間の区切り、切断、響きである。間は、何か身をまかせた愉快な、やわらいだ、こころよさ、その美感が、ほのぼのと生まれてくる。道を極めるアートやスポーツに匹敵することが、だれでもできる。静かにすわり、じぶんをふりかえること。1日1回、小さな間をつくり、[いま] に委ねること。

Cultivate your moments. [いま]を耕す。

坐って、何もしない。(忘れている状態をつくる)

行住坐臥ということばがあります。人間の身体の基本姿勢です。その中で、坐は、ひとり静かに坐ることです。古来よりブッダにおける禅定、古代インド諸宗教の瞑想坐、ひとり静かに坐ることが人間の精神にとって根本的であるということを示しています。静かに坐り、何もしないこと。坐る行為によって、無条件に命にとって大切なことを学ぶのです。

Sit calmly.(しずかに坐る)

人間に備わった力を引き出すには?[匂い]

何かをする力は何かをしない力にある(アリストテレス)。「何かをしない力」を物語るエピソードです。人間の嗅覚は、100万分の1という小さな単位でも臭いの元を感知します。でも、それは、ほかのことは何もしないで、静かに、ひと息の「間」をいれることによって、働きます。

Slow down.(ゆっくり)

すむ

Relax.(身心を楽にして)

和語の響きには、ものごとのふるまいや様子を表すコンセプトが宿っています。すむとは、静かに待ち、おちつくことです。何かいろいろな努力をしないと「澄んだ心」にならない、と構える必要はありません。静かにすわり、息をゆっくり吐くことです。エンパシーム「あゐてにふすいま」の[ す ]は、ひと息ぶん、すむ「間」です。

あとから共感素になる

音素(Phoneme)は、組み合わて言語を構成する単位。エンパシーム(Empatheme)も、これにならい、共感 (Empathy) という現象の最小単位になるという意味です。それがなぜ「共感の素」なのか?共感という現象は、自然にわき起こる気持ち、無意識的なものです。相手に共感しているじぶん自身に後から気づくものです。

英プラの路を共にゆこう (3)

ことばは、じぶんの身体を楽器のようにして音を出し、相手の音を捉える身体運動です。私たちは日本語でこの身体運動を身につけています。英語が聞き取れない理由は、日本語の身体運動に習熟しているからです。単語ごとに日本語の文字に置きかえて覚えることに慣れているため、短い音節のつながりやリズムを使う機会が日常ほとんどないからです。