共に読み、語り、歩む冒険

『ジップくん宇宙へとびだす』が忘れられません。
ジップくんがテレビの中に吸い込まれ、電波にのって宇宙へ飛びだしてしまうという話です。

忘れられないのは、内容よりも、姉が読み聞かせてくれたことです。5歳の時です。いっしょに宇宙に飛び出して、冒険した気分でした。

私は「宇宙へとびだす」というフレーズが好きでした。時々、思い出すことがあります。先日も、トレイルを歩いていて、オーク樹林の木漏れ日の間から青い空がのぞけた時に、なぜか、このフレーズが思い浮かびました。深い理由はありません。

インドラの網のように

宮沢賢治『インドラの網』。

インドラのあみとは、無数の宝珠ほうじゅが結びあい、ひとつひとつがたがいに映しあうという、大乗仏教の宇宙観を表すメタファです。

「ふと私は私の前に三人の天の子供らを見ました。その燃え立った白金のそら、湖の向うの鶯いろの原のはてから熔けたようなもの、なまめかしいもの、古びた黄金、反射炉の中の朱、一きれの光るものが現われました。それは太陽でした。厳そかにそのあやしい円い熔けたような体をゆすり間もなく正しく空に昇った天の世界の太陽でした。光は針や束になってそそぎ、そこら一面かちかち鳴りました。

共感のまなざしがじぶんをつくる

澄み渡った秋の夜空にくっきりと浮かぶ月を見上げて、谷川健一先生を思い出す。

多くを生きるとは、多くを感じること。

それは宇宙に脈動し遍満する生命のリズムを感受すること。

これまで私は、谷川先生のことばに勇気づけられ、「独りで学ぶ」ことを学んできた。

心がひらかれていれば、何とでも、つながれる。

共感のまなざしと姿勢が、じぶん自身をつくる。

相手の星になる

上田閑照『生きるということ』の一節より。

きれいな空のある晩、星を見るともなく眺めていると、たまたまあるひとつの星になんとなく集中していた。その時に、ふと奇妙なことを思いついた。あの星に誰かがいてもしこちらをみていたとしたら、私にあの星が見えているように、向こうの誰かにもこちらがみえているのかなと思ったのだ。

そうすると、またかわって、私があの星にいるような感じがした。私があの星にいてこちらの地球を見ていて、こちらの地球があの星のように見えている。いや、いまあの星が見えているそのままが、あの星にいる私に地球が見えていることだ、という感じ。

共感する原子

波が打ち寄せてくる 膨大な数の分子が
互いに何億万と離れて 
勝手に存在しているというのに
それが一斉に白く波立つ波をつくる

それを眺める眼すら 
存在しなかった遥かな昔から 何億もの年を重ね 
今も変わりなく 波濤は岸を打ちつづける
ひとかけらの生命もない 死んだ惑星の上で
誰のため 何のため 波は寄せてくるのか?

ひとときも憩わず エネルギーにさいなまれ
太陽に亡ぼし尽くされ 宇宙に放たれる
そのたったひとかけらが 海をとどろかす

共感の宇宙

宇宙にあるすべての物体は、共感によって結びつけられている。

ライプニッツは言いました。宇宙は、共感の結びつきでできている、と。そこから出発する方が、わかりやすいかもしれません。つながりあう宇宙のなかに、私たちは生まれてくるのです。

ライプニッツは、宇宙の、これ以上、わけられない最小の単位を「モナド」と呼びました。どんなイメージでしょうか。魂みたいなものか、エネルギーみたいなものか、表象する微小なピースか。何かにたとえないと、想像しづらいですね。

私たちは、みな、モナド。小さなじぶん。

手がかりは、身のまわりに。

人間は宇宙の一部。この身を包んでいる自然と共に生きています。すべてのものごとは、きっとおなじ原理で働いているのだろう、と想像したりもします。でも、それは、なかなか、確かめようがありません。

そうです、自分で自分を観察することが、なかなかむずかしいのですね。観察者になろうとしても、自分は当事者であるからです。私たちは、気がつかないうちにいろいろな判断をし、また体験をしながら生きています。

観察者であり、当事者。判断者であり、体験者。
そのような存在であることは、変えられません。

みずからに語り、つづる。

ローマ皇帝であり、哲人であったマルクス・アウレリウスの『自省録』から。

英語では 『Meditations』(瞑想録)という題で知られる、ギリシャ語の原典は「自分自身へ語られたもの」という意味があります。

アウレリウスは、日々、静かにじぶん自身と対話をもち、自らに語り、自らにつづりました。

その日々の糧が「自省録』です。

じぶんの自然と、宇宙の自然とに従って、まっすぐな道を歩め。
これらふたつの道はひとつのものだ。

夢と共感

江戸時代の禅僧・明恵みょうえ上人は、月の歌人でもありました。

隈もなく 澄める心の 輝けば
  我が光とや 月思ふらむ

「隅もないほどに澄んだ心を月が見て、じぶんの光だと思うかもしれない。」
明恵上人自身が月になり、世界を見ている歌です。

古来、花を歌うのは、花になること、月を歌うということは、月になることでした。
明恵上人の心境にいたるのは、一朝一夕ではありません。
いえ、一朝一夕ごとに、ひとつずつ、共に感じる心を育むことなのでしょう。

かけがえのない、このじぶん。

数学者・遠山啓さんと、ある高校生の往復書簡から、原文を抜き書きしてみます。

「一面識もない先生にとつぜんのお手紙をさし上げるのはなんとなく気がひけましたが、思い切って書きました。半年ばかりまえに、先生の講演をきいたことがあります。お話のなかで、先生がテストの点数なんかで人間のねうちをきめるのはまちがいだ、という意味のことを話されたのを覚えています。

ぼくは高校二年生です。ある悩みがあります。ぼくは生まれつきのろまなのです。何をやるにも人一倍の時間がかかります。ぼくはにんじんよりみじめだと思うことがよくあります。高校を出たら、どこか遠い田舎にある窯元をさがしだして、そこで修業したいのです。ご意見をお聞かせください。」