自己をならふというは自己をわするるなり④ [相手を思う心と親切なふるまい]

「自己を忘れる」は忘れる話というより、むしろ、忘れる体験を思い出すことです。端的に言うと自然に親しむことです。正法眼蔵には、親しむということばがたくさん出てきます。例えば「山河の親切」。共感的な想像を英語でempathy(エンパシー)と言います。相手を思いやる状態、親しくふるまう行為が「自己を忘れる」修養になるのです。

自己をならふというは自己をわするるなり③ [忘れるとは、相手の存在をイメージする共感的な想像力]

人間の脳にはマイナスという概念がありません。忘れる、消し去る、といった、キャンセルボタンや、削除キーのような機能はないのです。でも、忘れるというスイッチのかわりに、忘れるという状態にみちびくことはできます。大切なことを学ぶということは「じぶんを忘れている」ふるまいや行為によるものです。忘れていたことに気づくことです。

Unlearn to learn your “self”(じぶんを忘れるを身につけてこそ、学べる)

自己をならふというは自己をわするるなり②[脱落する身心を確かめること]

道元禅師はものごとを逆転させるイマジネーションを明快な論理に集約させます。身心脱落とはなりきってじぶんを忘れること。周りの世界の中に自己投出。 脱落身心とは、そのじぶんをふりかえって自覚すること。身心脱落と表裏一体の、脱落身心。身心脱落するじぶん自身を確かめる自覚(証)によって行為(修)になるのです。だから、修証一如。

Learn to unlearn your “self”(じぶんを忘れる、を身につける)

自己をならふというは自己をわするるなり①[心身脱落は「じぶんを忘れよ」ではない]

道元 『正法眼蔵』に「自己をならうとは自己を忘れることだ」ということばがあります。仏道は自己の究明である。そのエッセンスは、自己を忘れること。「身心脱落」であると説きます。じぶんを投げ入れるように、とろけるように、じぶんを忘れることである、と。ところが、実は、その真意にはもっと先があります。身心脱落だけではないのです。

Unlearn your “self”.(じぶんを忘れよ)

共感でじぶんが育つ

ルソーのことば「私たちは、二度、生まれる。一度目は存在するため、二度目は生きるために。」二度目の「生きる」とは、世のため、人のために生きる自覚をみずから育てるという意味です。自分を大切にして、他者、社会を幸せにするように生きることが喜び。他者への共感が自己を学ぶ基礎であることに気づく時、勇気が自然に湧いてくるのです。

We are born twice over, into existence and life.

もともと、つながっている。

共感とは、じぶんと他者がつながっていること、そのもの。もともと、私たちはみな「空気」でつながっています。でも、つながっているものを、ふだんは「わけへだて」しながら生きています。だから「じぶんと相手を結びつける」というのは結び直すこと。もともとつながっていたことを、忘れているのです。共感とは、その事実に気づくことです。

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