無限のひと時

岩田慶治『無限と瞬間』より。

「一瞬、枝の小鳥が飛び立ったと言い、ぽっかりと蓮の花が咲いたと言うけれども、それは刹那あるいは一瞬の断片だったのではないだろうか。

その一瞬、山雀が枝を離れたと見ると、すでに数えきれない山雀が群れて空を渡って行く。そのとき、純白の蓮がいっせいに花を咲かせている。一瞬、一刹那のなかに同時という時があって、その時が無限に通じているのであった。

そうでなければ、ブッダの開悟したとき、そのとき草木虫魚同時成道などとは言えないではないか。 われわれは無造作に瞬間というが、実は瞬間と瞬間のあいだには、隙間があった。余白があったのだ。

歌があるから

A bird doesn’t sing because it has an answer, it sings because it has a song.

鳥がうたうのは、答えがあるからではありません。歌があるから、うたうのです。

何かの理由があるからではなく、何かの目的の手段でもない。心に歌があれば、自然に歌声になって現れる。
なぜ、歌を歌うのですか?

生きている、ということ以外に何もない。

パティ・ダイさんのことばから。
生きていることのすべてが、アート。

Creative(創造的)は、いのちのふるまい。
生きていることそのもの。だから、

Creative is a Verb. クリエイティブは動詞。

The only real way to be creative is to create.
 
(創造的であるための、真に唯一の方法。それは創造すること。)

その場になれば、思い出す。

「ルーティンを忘れることもありますよ。」
あるテニスプレイヤーのコーチから聞いた話です。

コート、天候、対戦相手、自分の調子。いろんな状況がある。選手は状況に応じて心を落ちつけられることが大切。無意識にできるように、日々練習を積んでいる。決まった所作を繰り返して身につけることで、「覚えている」ということを忘れているかのように。それが、ルーティン (Routine) 、「作法」です。

私たちの日常にも、実は色々なルーティンがあります。例えば、歯磨き。わざわざ、覚えていなくても、忘れることはほとんどありません。覚えている、ということを忘れているぐらい、身についています。

じぶんを生きている

私が生きている。

そして、みんなも生きている。気がつけば、動物も、植物も、みんな共に生きている。ふだん私たちは、そんなふうに、そういう順序で、考えますね。

金子みすゞ『蓮と鶏』より。

泥のなかから 蓮が咲く。
 それをするのは 蓮じゃない。

卵の中から 鶏が出る。
 それをするのは、鶏じゃない。

それに私は 気がついた。
 それも私の せいじゃない。