Empathemian, Malmo, Sweden

岩田慶治『無限と瞬間』より。

「一瞬、枝の小鳥が飛び立ったと言い、ぽっかりと蓮の花が咲いたと言うけれども、それは刹那あるいは一瞬の断片だったのではないだろうか。

その一瞬、山雀が枝を離れたと見ると、すでに数えきれない山雀が群れて空を渡って行く。そのとき、純白の蓮がいっせいに花を咲かせている。一瞬、一刹那のなかに同時という時があって、その時が無限に通じているのであった。

そうでなければ、ブッダの開悟したとき、そのとき草木虫魚同時成道などとは言えないではないか。 われわれは無造作に瞬間というが、実は瞬間と瞬間のあいだには、隙間があった。余白があったのだ。

われわれが後生大事にあつかう因果関係というものも、実は、あいまい至極なものであった。原因があって結果があるという線的かかわりについてはよく考えるが、原因と結果をつつむ場の性質についてはあまり注意しない。

矢を放つ。パシッと矢が的にあたる。原因あっての結果じゃないかというかもしれないが、それがそうなるべき道が空中についていたかもしれないのだ。もちろん、はじめから道を踏み外したものは別である。矢は見えない糸にひかれて的に導かれたのである。

飛ぶ鳥が道を間違わないのは、空中に道があるからである。もっと要約していえば、出発点が到達点だったのだ。このことは人生の生死を考えてみればわかりすぎるほどよくわかるだろう。表裏一体、生死はひとつなのである。」

このような情緒、感慨に共感できる時があります。

ひと息ぶん、ひとことぶんの、共感。

じぶんの身心が、まわりに映っているとき。

エンパシームは、共感の素をつくります。ほんのひと息の、をつくりさえすれば。

出典:岩田慶治『<わたし>とは何だろう』