自己をならふというは自己をわするるなり②[脱落する身心を確かめること]
道元禅師はものごとを逆転させるイマジネーションを明快な論理に集約させます。身心脱落とはなりきってじぶんを忘れること。周りの世界の中に自己投出。 脱落身心とは、そのじぶんをふりかえって自覚すること。身心脱落と表裏一体の、脱落身心。身心脱落するじぶん自身を確かめる自覚(証)によって行為(修)になるのです。だから、修証一如。
Learn to unlearn your “self”(じぶんを忘れる、を身につける)
道元禅師はものごとを逆転させるイマジネーションを明快な論理に集約させます。身心脱落とはなりきってじぶんを忘れること。周りの世界の中に自己投出。 脱落身心とは、そのじぶんをふりかえって自覚すること。身心脱落と表裏一体の、脱落身心。身心脱落するじぶん自身を確かめる自覚(証)によって行為(修)になるのです。だから、修証一如。
Learn to unlearn your “self”(じぶんを忘れる、を身につける)
道元 『正法眼蔵』に「自己をならうとは自己を忘れることだ」ということばがあります。仏道は自己の究明である。そのエッセンスは、自己を忘れること。「身心脱落」であると説きます。じぶんを投げ入れるように、とろけるように、じぶんを忘れることである、と。ところが、実は、その真意にはもっと先があります。身心脱落だけではないのです。
Unlearn your “self”.(じぶんを忘れよ)
ふだん私たちは、身体は内側、環境は外側と、区別しています。でも、内と外はつながっています。空気に包まれているから、呼吸をしたり、会話したりできるのです。空気とじぶんは一体のもの。下條信輔さんはこのように言います。「環境は記憶の外部装置。他者の存在から意識は生まれる。」じぶんとは、環境も全部ひっくるめて、じぶんなのです。
I am a product of my environment.(じぶんは環境の産物)
誰もが難解だとする正法眼蔵。多くの解説書もあり、意味を知ることはできますが、それでは実感がわきません。実感は、じぶん発(原因)でも、じぶん着(目的)でもなく、そのわけへだてを放って、共感の心から物事に関わる気持ちになって、はじめて湧いてくるものです。正法眼蔵とは、「共感の世界」の中に生きている、それに気づくことなのです。
Let it go.
メタファーとは、直接感じられないものを、間接的に感じられるようにする方法。何かに見立てる、見えるものに置き換えることです。知っていることを素材にするから想像ができます。想像のツールがメタファーです。エンパシームは、身体所作や声を色のつぶのメタファーで表します。なじみのある色つぶのメタファーで、プラクティスをしやすくします。
Practice Empathemes.(エンパシームをつかってみよう)
人間と機械が共に働き、自然な流れで「間」 をつくり、ふだんは気づいていない人間の力 を引き出す方法「エンパシームメソッド」。9 年あまりの研究開発をへて、日米で発明特許を取得。エンパシームは、修養のイノベーション。「姿勢の鏡」でじぶんをふりかえることによって、身をもっておこない、心を養う習慣を身につけます。
ネット・スマホ・AI時代。世界規模のテクノロジーとビジネスの社会は、私たちの生活から想像することがむずかしくなっています。テクノロジーは本来、人間と対峙するものではありません。技術は、自然の恩恵に授かるために人間がつくりだしたものです。従属するのでも、させるのでもない、 共にあり、共に働くという思想が必要です。
We work together.
ユージン・スミスは水俣の人々と共に暮らし、被害者家族との関係を築きながら「ミナマタ」を表現した。「絵や写真が直接、病気を治癒したり、世界を変えたりはしないが、共感の心にかたちをあたえ、よびかけ、それをわかちあえる力ははかり知れない。」エンパグラフィも同じ思いである。エンパシームは小さな声、共感のかけら、[いま] の証。
Empathy is our precious resource.
チャールズ・バベッジは、コンピュータという思想の先駆者です。道具としての計算機から、システムとしての自動計算機を発明しました。コンピュータというと、計算能力(どれだけすごいか)ばかりが取りざたされますが、コンピュータはそれ以前に「人間と共に働くもの」という思想です。それは人間を含めた全体をシステムとして考えることです。
I am also a computer.