Empathemian『海の宮』

付記(1)「共感の精錬 (4) 見えないけれど、つながっている」補足

アルマデン水銀鉱山の博物館で鋳鉄の釜を見て、帰宅して私はまっさきに「日本書紀·神武紀」と読み直してみた。7,000文字足らずで磐余彦の生涯 が簡潔にまとめられている。その中に、国を治める祈願のことばある。
原文をそのまま引き、傍線を加えた。 

「吾今當以八十平瓮、無水造飴。飴成、則吾必不假鋒刃之威、坐平天下。」乃造飴、飴卽自成。又祈之曰「吾今當以嚴瓮、沈于丹生之川。如魚無大小 悉醉而流、譬猶柀葉之浮流者柀、此云磨紀、吾必能定此国。如其不爾、終無所成。」乃沈瓮於川、其口向下、頃之魚皆浮出、隨水噞喁。」

水を使 わずに飴をつくってみせる。もし飴ができたなら、武力を使わずに天下を平定できるだろう。」おのずと飴ができた。丹生の川に嚴瓮(かめ)を沈め てみる。魚が酔っ払うはず。そうであればうまくいく。そうならなければすべて失敗する。するとそのとおりになり、魚が水上に浮かび、喘いだ。)

水無くして飴が自然にでき、飴の入った甕に川の水につけると魚が死ぬという。飴は水銀の比喩であろう。万葉集には何首も「纒向の痛足」という ことばが出てくるが、その現場を思い浮かべることができる。

嚴瓮とはどんな容器なのか調べてみて驚いた。先の尖った甕である。水冷還元で貯めら れる水銀の容器は、釜の下で地面にしっかりと置かれたのではないだろうか。

アルマデンの博物館でひらめいたことだが、谷川先生の、「あらゆる文 化現象は、それを象徴的にしか表現できないとするのが私の考えである」(「青銅の神の足跡」)のことばを思い出した。水銀ということばもはじま りは比喩である。丹生のみちも、文明を象徴的に表現して人間の根源にたどり着くひとつの方法かもしれない。

W.Eugene Smith 『Minamata』

付記(2)「共感の精錬 (7) 光・空気・土・水と、隣人とともに生きている」補足

ユージン·スミスの写真集を見せてもらった鮮明な記憶がある。それがいつのことだったか、確かめたいと思っている(母の日記に手がかりが残っ ていたらだが)。

若い頃、谷川先生の著作に出会って間もなく、先生の故郷とも「丹生のみち」ができていたのだろう、スミスの『MINAMATA』に出 会った。いま思えば、私自身の発明·研究開発·制作·創作を支える想像の源泉がスミスのことばと深い縁を持っていたことに気づかされる。原文か ら抜粋して引く。

Just sometimes – a photograph or photographs can strike our sense into greater awareness, and as catalyst to emotions and to thinking, into a greater sense of understanding and compassion. Photography is a small voice. I believe in it.

私の思いも同じである。ただし、私の作品が共感を生むという意味ではなく、誰もがじぶんのひとときで、じぶん自身に共感し、きっかけと可能性 づくりになるような、手伝をするという意味である。

フォトグラフィということばをエンパグラフィに変えてみる。エンパシームはじぶんの小さな息 である。声である。共感のかけら、[いま] の証である。エンパグラフはそれを表現したもの。

姿勢をうつすエンパグラフ

絵図そのものが直接、病気を治癒したり、すぐに人生を 変えたり、世界を変えたりはしない。あくまで、ほんの一息の共感時間を思い出し、映し出すことである。しかしひとつひとつの[いま] をじぶんひと りで、ほんのわずかな手助けをつくることができる。

じぶんに共感するきっかけをいつだってつくることができる。それを「私」というじぶんの情報 として主観的にも役立てることも、親身になって助け合うコミュニケーションとして共感的に活かすことも、客観的な実践データとして研究に活かすこともできる。

サイエンスの力、テクノロジーの力、アートの力、そして素のふるまいの力。これらは調和をもって合わせることができる。その思い をこの文章にこめた。「ひとつぶ」の共感を日常の中で身につける小さな素振りの力によって、何かがすこし違って見えたり、聞こえたり、感じられ たりする、未知の可能性を私は信じている。

共感の精錬 (13) 付記 ② じぶんの心を映す へつづく

共感の精錬 目次ページ へもどる