さかさまに考える

「逆問題」と呼ばれる問題の捉え方があります。

物事を想像したり、調べて推測したりする時、順方向に考えるか、逆方向に考えるか。順方向とは、原因から結果、入力から出力を求めること。逆方向とは、結果から原因、出力から入力や入出力の関係を推定することです。どうしてこうなったの?何が原因?と。

上村豊さんは、こう言います。
「すいかをたたいて、その音からすいかの味を推定する問題は、逆問題的。密度と音の高さの関係を法則とし、音の高さの観測結果からすいかのおいしさの原因である密度を推定する。ただし、これだけでは定性的な観察に過ぎない。すいかのおいしさの指標を数値として定め、その指標を音の高さから決定するパスを通し、「すいか美味計測器」なるものを考案するのは、逆問題。考案しても商品化する人がいないから工学者はやらない。また理学的に面白いことが発見できそうにないから、理学者も手を出さない。」

共感=わかる

数学者・岡潔は、こう言いました。

「先生が山とか川とか木とかを教えるとき、例をもって教える。児童のこのわかり方は、「感覚的にわかる」のである。「形式的にわかる」といってもよい。もう少し深くわかるのは、意味がわかるのである。これを「理解する」という。しかしここにとどまったのでは、いろいろの点で不十分である。まず知的にいって、進んで「意義」がわかるまでゆかなければいけない。でないと、えてして猿の人真似になってしまう。意義がわかるとは全体の中における個の位置がわかるのである。だから、全体がわからなければ何一つ本当にはわからない。このわかり方はいわば心の鏡に映るのである。

なろうとするから、わかる。

森田真生さんは、こう言います。
「松のことは松に習え」ということわざがある。松のことをほんとうに知りたかったら、自分がすっかり松になるくらい、全身で松のことを思いつづけないといけないのである。あたまだけで、なにかをほんとうに知ることはできない。

あたまで「この人は悲しいんだな」と理解することが、悲しみを知ることではない。相手といっしょになって、自分まで悲しくなったとき、はじめてその人の悲しみがわかる。知るということ、わかるということは、自分ではない相手の心と、深く響きあうことなのだ。

数学をわかることも、これに似ている。ただうまく計算したり、知識を増やしたりするだけじゃない。
数や図形の声に耳をかたむけ、心かよわせあうこと。

素心深考

素心深考そしん しんこう

広中平祐さんは、こう言います。
「なぜ学ぶのか?それは、目には見えないが、生きていく上に非常に大切なもの、「知恵」を身につけるために。そのためにいちばん大切なことは、素朴な心「素心」を失わないこと。

私たち人間は日常生活の中でとかく自分の立場にたってものごとを考えがちなもの。自分の希望・願望・主張が原因となって、相手との間にトラブルが生じることが少なくない。このような時こそ、相手の立場にたってものを考えること。

相手と一体になって考える謙虚さが、素心。

素心は、日常生活の中だけでなく、学問していく中で、もっとも基本的な条件である。事実を事実として受け入れること、失敗することによって、身をもって修得するために。素心によって深く考えることができる。