あたりまえになってなれていること、興味・関心のないことには、気がつくことがありません。
何に気づくべきか、という基準になるものがないからです。
何かに気づくとは「対象そのものに気づく」というよりも、ふたつのことのちがいに気づくことです。
ふたつのものを比べてみた時の「差分」や「変化」を、しっかり捉えられることです。
意識していなくても、心でくらべること。
そして、「気づいていない」という、じぶん自身の心に、じぶんの心が気がつくこと、です。
だから、「よーし、これから気づくぞー」と言っても、いったい何に気づくべきか、何の準備もない状態では、意識しようにも、じぶんの心の中に比較するものがありません。
別の言い方をすると、「気づかない」」とは、じぶんの心の中に浮かぶことの中で、何と何を比べたらよいかに、気づいていないということです。
くらべるものがないから、気づくことがない、わけです。
私たちの日常は、意識されない(つまり、無意識的な)ふるまいでできています。
無意識的にしていること、姿勢やふるまいの中に隠れていることを、いきなり「意識して思い浮かべる」というわけにはいきません。
なので、その一瞬のできごとが起こるように、心の準備をしておくこと、習慣づけることが、気づくための必要条件なのです。
それでは、「裸の王様」は、何と何をくらべたらよいのでしょうか?
ウソにだまされてしまったこと。周りの人がだれも教えてくれなかったこと。
じぶんの心が何かにとらわれていたこと。
それらを一生懸命考えるだけでは、気づかないじぶんがあることに気づく、というところまで、たどり着きそうもありません。
王様の心にかけているものは何なのでしょうか?
それは、「こうありたい」と思う、じぶん自身の姿です。
こうでありたい、そのようになりたいじぶんの姿を思い浮かべることができないから、くらべられないのです。
じぶんでじぶんに「気づく」には、気づけるための、比較対象が必要だということです。
こうありたいと思うじぶんの姿と、いまのじぶんを照らし合わせること。
それが、「気づく」という現象の現場です。
気づくとは、じぶんの心が、じぶんの心に気づくこと。
心の中でねがうじぶん像と、現実でのふるまいをくらべられるような、習慣づくりが大切。
それは、何かをしている最中には、できません。
あとから、ふりかえって、くらべることです。
いつでもふりかえる先の、じぶんの姿(イメージ)がいります。
ねがう気持ちが、気づきのための土壌をつくる。
このように言うと、少し意外に感じるかもしれません。
でも実は、「ねがう」とは、何かを欲しがることではなく、じぶんの中に、いつでもくらべられるじぶん像をつくることなのです。
What you wish to become shapes your self-awareness. It works as the reference to your self.(ねがいが気づきをみちびく。ねがいはふりかえるじぶん自身の参照先)
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出典・参照:以下のエンパレットなど