言語と音声のサイエンスをもとに

1. 気づきの本質からアプローチする

意識せずに音を捉えられる母語と、その過程をへていない英語

ことばの原点は、身体を使ってことばを声にする、そしてその声を聞くところにあります。母語を使う時、意識では捉えきれない、100~200ミリ秒 (0.1-0.2秒)の多様な声の変化を感じ、相手のことばを捉える能力が、ほとんど「意識されない状態」で発揮されています。

英語を習得するということも、母語と同様に、意識では捉えきれない音の変化を感じ、それを捉えて、自分の発話で返せるようになることです。しかし、そもそもリアルタイムに意識で捉えられない動きを、意識しようとする努力で習得することはできません。母語は、身につけた言語です。英語は「意識せずに捉えられるようになる」過程をへていない、身につけていない言語です。

miniプラは、単にネイティブ音声を聞くためのものではありません。音声を視覚化し、どこがどのようにちがうのかに気づくことを目的としてつくられています。世の中には、教材となる数多くの動画コンテンツがあります。ネイティブが実際にどのように発話しているかを見ることはとても有効です。が、見ることに多くの時間を費やしてしまい、また、見るだけで知識を得たことに満足してしまいがちです。

従来の考え方は、意識しようとすることでは気づけないものに、気づこうとするアプローチだった、といえます。あたかも、目の大きな網(意識)で、小さな魚(無意識)をすくい採ろうとするかのように。

どのように「気づくのか」を体験する方法

脳神神経科学の知見によって「人間の活動のほとんどが無意識下に営まれ、それは無数の身体運動とそれに伴う心理過程の記憶として無意識下に動いている」ということが明らかにされています。しかし、どうしたら、無意識に働くじぶん自身の力にアクセスできるのか、それを具体的な学習に役立てることができるのか、明らかではありませんでした。

英語には日本語にないリズム、音の種類がたくさんあります。気づかぬうちに、私たちは日本語のリズムと音で英語を聞きとり、文字を読んでいるのです。日本語は、意識せずに話せるため、じぶんの話し方、音の捉え方に気づいていません。

「意識と無意識」という概念は、人間に備わった力を理解する手がかりになります。が、その一方では、その都度「気づく」という「瞬間的なできごと」について、どのようにして起きるのか、漠然としています。「意識されずに、行為が起きている」ということを、じぶんのふるまいに即して頭で考えようとすると、何が意識で、何が無意識なのか、よくわからなくなります。もうすこしかみ砕いて、実際にじぶんで体験して確かめられる方法が必要です。

関心のないところに「気づき」は起きない

気づく体験は「一瞬のできごと」です。しかし、何もないところに、突然、気づくことはありません。じつは、じぶんとの関わりにおいて、気づけるような事前の状態、またふりかえることによって「気づいた」という自覚をうる「事後の状態」を含めて、その「一瞬のできごと」が気づきになるのです。

気づくという体験が、ある一定の割合で持続するためには、意識の働きが必要になります。気づこうと意識する、という意味ではありません。「無意識的な身体動作に伴う心理過程」が起きやすい状態をつくり、持続させていく意識の力です。じぶんの無意識的なふるまいを意識化すること。気づくことのできる無意識的な行為の機会をつくることです。

気づくとは、じぶんで捉えられること。気づきが起きるような状態を、ふだんの生活の中でみちびくことです。「なくて七くせ」ということばあります。意識されない行為とそれに付随する心理過程が、何度もくりかえされ、意識されない「記憶」に定着しています。ある状況になると、それが無意識にクセとして出現します。でも、ふだん、そのことに関心を抱いていないので、そのようなクセがあることに気づかないのです。

気づくことのできる「無意識」過程を見出す

逆の言い方をすれば、じぶん自身が無意識にふるまっている過程に気づければ、その過程を変化させることができます。「気づくことのできる無意識プロセス」をじぶんの身体行為の見出して、そこから意味のあるパターを抽出できれば、それを利用して、持続的な意識(自覚)に高めることができます。そのようにして、じぶんの「思いと姿勢」をつくっていくことが、すなわちよい習慣づくりになります。

エンパシームは、まず、発話の前後も含めた、意識されない身体プロセスをつくり出します。それは、動作のはじめと終わり以外は、ほとんど、意識されずに、自然な流れでひととおりのふるまいで進み、ひと時の場をつくります。原点を定め、気づきをみちびき、それが持続される循環にします。

日常の中から、学習者にとって意味のある、無意識的なプロセスを、定型に、単位ごとに捉えることで固有のパターンとして抽出できるようにし、それをだれもが何度でも繰り返し、再現、編集できるように残すことで、じぶん自身で気づく「しくみ」になります。エンパシームメソッドは、これを一貫したプラクティスの中に組み組み、じぶん自身の「意識されないふるまい」の中身をふりかえり、手本とのちがいや、じぶん自身の変化に「気づく」体験をみちびき、ガイドする総合的なアプローチです。

「無意識のフチ」に現れる「ちがい」や「変化」に気づく

じぶん自身の「無意識のフチ」にあらわれるふるまい、現象を捉える。リアルタイムでは、ほとんど意識されない、身体動作をともなう心理プロセスを、あとでとりだせるように捉え、そのデータをじぶん自身で使うことによって気づく実践(プラクティス)になります。

意識できない動きの中にある、じぶん自身のちがいや変化を、あとからふりかえることによって意識として捉えること。じぶんの心は、外部からモニターし、トラッキングすることでは捉えられないのです。抽出可能な、気づくことのできる、無意識のまとまりを見つけること。いわば、意識化できそうな、「無意識のフチ」にある、じぶんのふるまいを捉えることです。

気づきは、他者を観察することではなく、じぶん自身の関わりにおいて、じぶんのふるまいを観察し、そこに現れているものを捉えようとする体験です。それは、想像もできないところにあるのではなく、後から意識化できるような、じぶん自身の「無意識のフチ」に現れています。無意識下からすくいとり、意識で(多くの場合、ことばに変えて)こころにとどめて定着させ、(ことばで)取り出して、理解を深めることで、行動を促すことができます。

意識されずにできたふるまいの「かたち」をくっきりと浮かび上がらせる

その意味において、エンパシームは、意識のフチを捉えることを可能にする技術です。自分の声に表れる無意識的なふるまいをデータ化し、プラットフォーム上で可視化します。ただ「見える化」するのではなく、意識されずにできたふるまいの流れを、くっきりと浮かび上がらせ、その中に区切れや強弱などの変化を、はっきりと直感的にわかるような、あとから、行為の「かたち」をなぞり、たどれるような「かたち化」です。色と形をもった粒の連なりとして表現することで、空間的なイメージをつくります。

エンパシームデータを活用し、ふるまいの細部の、抑揚や音節、音素単位のピンポイントのフィードバックを可能にします。本人の無意識のふるまいを、意識にフィードバックすることで、細かい変化への気づきを促しながら発話プラクティスをする、という継続的なループが回り、効果的に英語を身につけていくことできるのです。

また、無意識的なふるまいを促すために、静かな間(ま)を作ることがプラクティスに含まれており、心を落ち着かせ、しぜんにプラクティスに集中する習慣と、それをあとから自覚に変えていく習慣を、同時に身につけていきます。

2. 言語と音声のサイエンスをプラクティスに活かす

じぶんの「音を捉え方」に気づいていない

ネイティブの英語を聞くと、あっという間に通り過ぎる、セリフが速すぎる、あるいは、部分部分の音が短すぎる、そして音の切れ目に検討がつかない、といった印象があるでしょう。また、会話になると、意識を傾けても、追いつかない、頭がいっぱいになる、といった体験もあるでしょう。これは、意識せずともすでに身につけている「音の捉え方」自体に大きな理由があり、さらに「ことばの捉え方」自体に大きな理由があるのです。

ことばの原点は、音の運動です。100ミリ秒(0.1秒)ほどの時間単位で変化する音の現象を、リアルタイムに意識でつぶさに追うことはできません。意識で捉えられる速さも、量にも限界があります。意識は、できごとを直後に捉え、圧縮した情報にかえることができます。ほとんどのことは、できごとの後からしか、意識できないのです。

聞き取れるとは、音の「かたち」を捉えられること

音は、一瞬で次々に、消え去っていくわけですから、ある単位で「時間を止めて」空間イメージをもったまとまりで捉える必要があります。脳神経科学では「その時にははっきりとは意識されないけれども、それぞれ特徴のあるまとまり、空間的な広がり、つまり「かたち」を経験する心理プロセス」が起きている、と言います。 

「聞き取れる」とは、音の「かたち」を捉えられること、そのかたちを運動化できる(発音できる)ことです。脳内で起きていることは、じぶんでは直接わかりません。が、イメージとして、想像はできます。くっきりと捉えられれば、そのまま運動へ変換できるのです。最新の「言語の脳科学」研究では、言語の聞き取りに、脳の視覚野が活発に動くことが明らかにされています。脳の中に、言ってみれば、区切れをもった図形の列があるかのように、ニューロンの働きが起きている、と想像することができます。

「音を捉える」ことは、母語では習得している技。したがって、ふだん意識されることもありません。一方、第二言語については、そのような音を捉える感覚を持っていないために、はじめ、いくら聞いても、音の切れ目がわからず、とらえどころがないわけです。

本来備わっている力を使うために

実は、人間は生まれながらにして、あらゆる音を捉える能力を備えているのですが、生後数年の間に、毎日聞いている言語の環境に特化していきます。必要のない音(つまり日本語の音、リズムにないもの)は、だんだん脳の働きから除外されて、しぜんに「聞こえなくなっていく」わけです。

ある年齢に達してからの、第二言語の習得は、母語とおなじようにはいかないまでも、プラクティスの量と質によって、習得が可能です。ただし「使うつもりになって、英語を実践する」ことが必要条件になります。読み書きだけで、ある程度、覚えることもできますが、それは苦労が大きいわりに成果の小さいやり方と言えます。本来、人間に備わっている力(じぶん自身が、身体で体験して母語を身につけた時の方法)を使わずに、知識の入力だけに頼ろうとしても、身体は動きません。

ピンポイントに、はっきりと「かたち化」して、直感的にもしっかり捉えられる手法

エンパシームでピンポイントにちがいに気づける

エンパシームは、その中に発話をひと息ごとに切っておさめるカプセルです。ひと息ごとのセリフは、音の列でできています。

「円符」は音の輪郭をなぞる方法。 円符=ただの可視化、視覚化ではなくて、ピースの系列として図形・記号化(さらにアニメーション)を加えた「発話のかたち化」です。音の区切りや強弱がくっきりと輪郭をもって感じられるようになるために、有効な手法です(米国にて特許申請中)。

じぶんでは気づいていない「ことばを捉え方」

認知科学では、体験によって培われる、無意識的な身体知を「スキーマ」と呼びます。音の連なりをイメージできることや、ことばのつながり感覚を持つことは、音やことばのスキーマを形成することです。

そのような概念によって、なぜ第二言語の習得が容易ではないか、ということや「英語の学習は、英語のスキーマを習得することだ」ということが理解できます。しかし、どのようなプラクティスをしたら、スキーマを獲得できるのか、具体的な方法が必要になります。

「音を捉えられる」とは、音のスキーマを習得する、ということです。そのようにひと言で言い表せる概念により、ある納得感が得られる一方で、「スキーマを習得する」ということをめぐって、克服すべき大きな課題があります。

ひとつは、捉えられる音には、レベルや段階があることです。日本語を母語とする学習者は、カナモジを読むような、音とリズム、感覚でことばを捉える能力を、意識されないかたちで身につけています。日本語のセンス、つまり日本語のスキーマを身につけています。

英語習得のボトルネックに気づくには?

したがって、英語という別のスキーマを、一から身につけるという、大きな課題に取り組むには、まず、ハードルやボトルネックになっているものに気づくことが不可欠です。それは、いっぺんにはできませんし、当然ながら、英語のスキーマの手本、そしてじぶんとの比較において「ちがい」がわかるような補助が必要となります。 

日本における従来の学習法は、単語や文の用法を、読んで覚える勉強が、学習方法の中心でした。昨今、ネイティブ発話の聞き取りや、自分で発話する練習なども加えられています。また、英会話スクールや、英語学習アプリなども、さかんです。他の学習科目と同じように「たくさん勉強すれば、その努力の成果があるはず」という考え方は、どこまで真実と言えるでしょうか?

「よい教材があれば、よい学習ができるはず」という、教育する立場の考え方にも死角があります。学習者の立場に立ってみると、じぶんで「気づける」ということ、それを積み重ねていくことによってスキルを身につけられるかどうかが、もっとも根本的な課題になるからです。

これを克服する方法論としくみ(メソッド)が明らかにされないことには、膨大な数の英語学習者が、努力に見合った成果を得られない、という現実に立ち向かうことはできません。 

じぶんひとりでプラクティスできる方法が必要

時間をかければできるのでしょうか?お金をかければ成果があがるのでしょうか?一概には言えません。

いずれにしても、これまでは、膨大な時間や負担をかけずとも「じぶんひとりで」行える、具体的なプラクティス方法と、それを支えるしくみがありませんでした。学校の授業、宿題やテスト、受験など、英語を勉強しなければならない環境がありながら、じぶんひとりでできる、プラクティスの場がない、効果的な方法がない、きっかけや手助けがない、という状況は、日本語を母語とする、ほとんどの英語学習者にとって共通の課題です。

エンパシームを使った「じぶんでちがいに気づけるプラクティス」、ことばのつながり感に気づく」プラクティスを両輪として、順に土台を築いていきます。 

プラクティスでつながる心

じぶんひとりでできるプラクティスと、ガイドしてくれる・教えてくれる人の手助けを直接つなぐことにより、時として、ひとりでは途切れてしまいそうな習慣づくりをしっかり支えます。

また、科学的なアプローチによる補助を、周囲の手助けを習慣づくりのしくみに組み込み、「センスを磨く」「感覚を身につける」といった漠然としたイメージで捉えていたことを、「スキーマの習得+身体でアウトプットしてふりかえる」という、具体的なプラクティスの習慣づくりに変えていきます。

だれもがみな、じぶんひとりでプラクティスできるとすれば、プラクティスをするものとして、おなじ体験を共有することができます。プラクティスに関わる人どおし、じぶんと周囲の間に、こころのつながりをつくることです。

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