だるまちゃんのきもち(1)

小さいだるまちゃんと、小さいてんぐちゃんが遊んでいました。「それ、なあに?」「これは、てんぐのうちわだよ。」「ふーん、いいものだね。」

小さいだるまちゃんは、うちへ帰って言いました。
「てんぐちゃんのような、うちわがほしいよう。」
大きなだるまどんが、たくさんうちわを出してくれました。「こんなうちわじゃないんだけどな。」だるまちゃんは、いいことに気がつきました。

だるまちゃんのヤツデの葉っぱを見て、てんぐちゃんはいいました。「ずいぶん、いいものをみつけたね。」だるまちゃんはいいました。「うん、でもーてんぐちゃんはいい帽子をかぶってるね。」

共感の精錬(フォトエッセイシリーズ)

「共感の精錬」というテーマでつづるフォトエッセイ(13回シリーズ)です。サイエンス、アート、ヒストリー、フィロソフィー、テクノロジー。分野のわけへだてなく、想像を自在に結びあわせる試み。現代の文明社会をよりよく生きる手がかりは、すべての人の「じぶん」という資源を精錬することにあります。共感を精錬するプラクティスこそ。

共感の精錬 (14) 『丹生のみち、共感の精錬』(エッセイ)

「多くが感じられる」ためには、素のふるまいで共感が引き出される環境を、じぶんの身辺につくることである。その思いに駆られて『海の宮』のエッセイの数で十数冊分の日々を過ごしてきた。エンパシームを共通の資源として捧げる探究の成果と互恵協働のコミュニティが一歩ずつ進んでいる。谷川先生へのオマージュとして、この一編を捧げたい。

共感の精錬 (13) 付記 ② じぶんの心を映す

「多くが感じられる」ためには、素のふるまいで共感が引き出される環境を、じぶんの身辺につくることである。その思いに駆られて『海の宮』のエッセイの数で十数冊分の日々を過ごしてきた。エンパシームを共通の資源として捧げる探究の成果と互恵協働のコミュニティが一歩ずつ進んでいる。谷川先生へのオマージュとして、この一編を捧げたい。

共感の精錬 (12) 付記 ① 水銀・人間の心・エンパグラフ

サイエンスの力、テクノロジーの力、アートの力、そして素のふるまいの力。これらは調和をもって合わせることができる。その思いをこの文章にこめた。「ひとつぶ」の共感を日常の中で身につける小さな素振りの力によって、何かがすこし違って見えたり、聞こえたり、感じられ たりする、未知の可能性を私は信じている。

共感の精錬 (11) サイエンス/アート/フィロソフィーをプラクティスに結いあわす

現代の文明社会をよりよく生きる手がかりは、すべての人の「じぶん」の中にある。きっかけは、思いが精錬され、実感に変わる時である。じぶんを資源として、きっかけは後から遡ってできる。その縁をもとにして新しい源泉ができる。ひとりのじぶんが資源になり、素材になり、未知の可能性になるという循環の回路をみんなでともに歩むことができる。

共感の精錬 (10) 克服は、備わった力に気づくこと

共感の力を引き出し、それを「より多く感じられる」ようにはからうために、人間の英知であるサイエンスの力も、創意工夫の結晶としてのテクノロジーの力も、心身のふるまい作法というアートの力もあわせることはできるはずである。心がけや心構えは、頭だけではできない。共感的な想像力を引き出す、小さな作法化をして身につけることこそ。

共感の精錬 (9) 共感の力と本質的な問い

誰もがテクノロジー文明社会に身を置き「過剰・欠乏」という表裏一体の地平に立っている。どのようにして、想像と共感の力を呼び覚まし、引き出し、取り出して、確かめたらよいのか。身辺の過剰そのものを直接取り除けないのであれば、まず、欠乏しているものを増やすことだ。ひと呼吸の間におこる想像の中につくり、その数を増やすことである。

共感の精錬 (8) 現代社会の過剰がもたらすもの

人間が心身のふるまいをつくる技術はアートと呼ばれ、その拡張はテクノロジーと呼ばれる。人間の創造性を外側に広げたものだ。しかし、今やそのテクノロジーが先導する現代文明の姿は、息がつまるほど性急で、著しく過剰で複雑だ。だが、現代社会は過剰というものの姿が見えず、声が聞こえず、肌で触れて気がつくという機会がなくなっている。