あとから、種になり、芽生える

私が20歳の時、父は病床に伏しました。脳梗塞の後遺症で運動神経が麻痺し、半身不随でした。目も耳も意識も明瞭でしたが、「声のことば」を発することができませんでした。構音障害という病気です。

「声ことば」は、肺からの気流を、声帯で振動でさせ、ノドや口・鼻で共鳴させ、舌や顎によって、区切りをつける身体運動です。声の「つぶ」が連なり、空間に濃淡がつく現象。それが、失われていました。

父が他界するまでの5年間、「ひらがな文字盤」が声ことばのための道具でした。父の左手を支え、指先がひらがなにふれるごとに、私が一音ずつ発音します。息づかい、目くばせ、うなづき、表情。雰囲気の中の「ひらがな列」を、共に話し、共に聞くのです。

水の作法

5歳の頃、私の家は「井戸水」でした。

手押しポンプの柄は、へびのようなかたち、いえ、ウルトラセブンの頭にのっていた飛び道具的「アイスラッガー」のようなかたちでした。

その把手をつかんでいったん上むきにひっぱり、それを振り下ろすと、勢いよく水がでてきます。小さな手からは水が溢れてしまいますので、はじめに、下にたらいを用意します。手からこぼれる水が、下のたらいの中に落ちるように、姿勢に細心の注意を払います。

手がかりは、身のまわりに。

人間は宇宙の一部。この身を包んでいる自然と共に生きています。すべてのものごとは、きっとおなじ原理で働いているのだろう、と想像したりもします。でも、それは、なかなか、確かめようがありません。

そうです、自分で自分を観察することが、なかなかむずかしいのですね。観察者になろうとしても、自分は当事者であるからです。私たちは、気がつかないうちにいろいろな判断をし、また体験をしながら生きています。

観察者であり、当事者。判断者であり、体験者。
そのような存在であることは、変えられません。