「ことばでは、うまく言いたいことを伝えられない」という体験はありますよね。
でも実は、ことばの本質は「意味伝達の手段」ではないのに、そのように思い込んでいただけなのです。
とは言っても、ことばによらずに、じぶんを表現したり、気持ちを共有したりすることはできません。
ことばの力を借りる必要があります。
そのためには、ことばの捉え方について、バランスをとっておくことが大切です。
ことばは、道具のように使えたとしても、じぶんだけの持ち物ではありません。
ことばは、身ぶり手ぶり、声のふるえ、間合いなど、身体表現によって、思いや気分を共有することです。
文字で表すことばは、その全体の一部です。
一方的に意味を伝えるために使われることばもあるではないか?
そのように感じることがあるかもしれません。
それは、そのことばに、思いや想像が欠けているからかもしれません。
でも、それが本来のことばだ、ということでは、決してないのです。
ことばは、相手とふれあう想像的な行為です。
概念や論理を使って意味を伝える方法だという以前に、また、それ以上に、思いや気持ちの共有なのです。
リズムや音を伴って、イメージを湧かせる、共感的な想像こそ、言語の本質です。
言語の習得は、表現の使い方の習得。
どんなふうに使われるか、そのイメージをわかせる、想像的な習慣。
そのような身のこなし、センスを養うことが、ことばを身につけることです。
常識的に思い込んでいる「言語=意味伝達」ではなく、共感的な想像こそ。
ことばは、相手を想像すること。
じぶんがそれをしているかのような想像をする、行為そのものなのです。
そのように言われれば、いくらでも心あたりがありますよね。
でも、ふだんはすっかり、忘れています。
ひとつの表現は、生きた生活の文脈の中でのみ意味をもつ。(*注1)
ヴィトゲンシュタインの精緻な論考と哲学は「20世期言語論的転回」などと呼ばれます。
天動説から地動説への転回が「コペルニクス転回」と呼ばれたように、それまでと話が反対だったということを表現することばです。
すこし大げさなのでは?と思う人もあるかもしれません。
でも、それは、ことばはそれぐらい、気がつきにくい、特殊な出来事なのだからです。
ふだん、私たちは、「意味は後からできてくる」ものなのに、意味が先にあってそれをことばで対応させているかのように、捉えてしまいます。
そのような思考形式(A→B)に慣れすぎているからです。
「原因があるから結果がある」という考えもそうです。
原因など、ひとつ特定できるものが何もなくても、原因を探そうとすることで、原因がつくられる、ということもあります。
ことばが生まれる現場は、そのような一方通行の図式ではありません。
もっともっと、共感(相手とふれあう想像)の湧き起こる出来事なのです。
Philosophy is not a theory but an activity.(哲学は理論ではなく、行動)
ことばの本質①[ことばは意味を一方的に伝える道具ではない] にもどる
出典・参照:ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』『青色本』『哲学探究』、以下のエンパレットなど
(*注1)「彼の哲学をひと言に要約することば。ヴィトゲンシュタインは、この格言を草稿のどこかに書いたと言っているが、私はまだ見つけることができない)(ノーマン・マルコム『ヴィトゲンシュタイン』)より