
40年ぶりに、小学校の同級生から便りがあった。
エンパシームのサイトからの「申し込み」メールだった。先日地元で行われた、私の講演会の新聞記事を読んだので、と添えてあった。
さっそく、そのメールにあてて連絡をとった。すると、「40年分をいっぺんに語るのは無理」と言いながら、近況が要領よく、丁寧に書かれていた。
添付された一枚の家族写真に、二人の娘さん、ご両親も映っていた。本人の表情も昔のまま。
お母上の顔を見るなり、話し声が思い出されてくる。文字どおり、光景が、じぶんの内側から、「思い出てくる」かのようだ。
なぜだろう。
家に遊びに行ったのは、50年近く前のこと。それも数えられる回数のはずである。
その声には、明るくて、風のような清涼感があった。
覚えているとは、その人の声が思い出せること。
声がつくる空気の風景が再現されること。
「なぜだろう」ではないのだ。実は、そのようなことが、自然に起きることに気がつかないだけ。
人間は息をして生きている。
その息のふるえで、声ことばはできている。
声ことばは、空気をつくる。
その空気は、縦横無尽に、つながっている。
一生に一回の出来事でも、声のことばで刻印はされる。そのことを、たしかめられる日が来る喜び。
声が、ひとりでに、思い出てくる。