坂村真民『念ずれば 花ひらく』

Be as one.(ひとつになる)

「これはわたくしが母に捧げた「赤い種」という詩集の最初の方にあります。母の名前は種と言いましたので、「赤い種」としたのであります。

母が幼い五人の子供を残されて未亡人となったのは三十六歳の時でした。それから母は、この五人の小さい子たちを育てあげるため、悪戦苦闘の日が開始されたのでした。母は七十二歳で亡くなりましたが、その母が苦しいとき、長男のわたしにいつも言ってくれたのが、この「念ずれば花ひらく」という八字十音のことばでした。

わたしの詩は、この葉のように散り失せてしまうかもしれませんが、念ずれば花ひらくという花の汗と血の結晶のような、この言葉は、多くの人の心に、花と咲き、実を結んでくれるのではなかろうかと思っております。」

あなたには、どちらが思い浮かびますか?

「念じたって、花なんて咲かないよ」
「思いを込めたって、うまくいくとは限らない。」

それとも、こちら?

「思いをこめれば、願いはかなうんだ。」
「信じる心が大事。」

声にだして、何度も言ってみると、
重大なことに気づくでしょう。

Empathemian,『念ずれば花ひらく』

念ずるとは何をすることですか?
大切にすることばを、唱えることです。
ひと息の声に出して、言うことです。

信じることばを出すことです。
漠然と信じることではありません。

ことばを、くりかえし、ふりかえり、未知のじぶん自身とつないでいくことです。
それを続けていく時に、ひとつずつ、花がひらく、と言っているのです。

「念じたって、花なんてひらかない」と思っていたら、ひらくはずもありません。
また、頭の中で「念じれば、花はひらく」と思っているだけでは、ひらかないでしょう。

そのことばを本当にじぶんに向けて響かせているか。
その響きを、じぶんで聞いているか。
行為に変えることです。

本当に念じた?
「念ずれば 花ひらく」というセリフをどれだけ、声に出しましたか?

ことばを信ずることもなく、
ことばを声にだすこともなく、
何もせずに、花はひらかない。

「念ずれば花ひらく」という真実。
念ずることなしに、花はひらかない。

そもそも、じぶんが花を咲かせるのではありません。
自然に咲く花に、心をあわせるように、
花がひらく時に、よりそうように、
世界と心をあわせるふるまいをカタチ(証)にするのです。

花一論の宇宙

「一輪のタンポポが宇宙を表している。
宇宙の心をタンポポは持っている。
それとおなじように、自分も一個の宇宙である。」(坂村真民)

Empathemian, 「みちゆくときよ」

エンパシームは、このことばをだれもが実践できることをねがって、つくられたテクノロジーです。
あなたが、ことばをくりかえし、声に出し、ふりかえり、人とわかちあい、助けあえるように、プラクティスしやすい環境をつくります。
あなたの声のことばをタネにして、それを育てていけるように。(*注1)

出典・参照:坂村真民 『すべては光る』、『毎プラガイド』、以下のエンパレットなど

(*注1)そのような、ひと息のことばをシード(Seed)と呼びます。静かにすわり、ひと息ごとのリズムによりそうだけで、シードをじぶんという土壌にまくことができます。それだけではありません。未知の可能性につなげる力になる、あなた自身による、あなたの「データ」を、毎日の継続の中に生み出します。

以下は「念ずれば花ひらく」ということば(Seed)についてのエンパレットです。

ねがいは朝を待っている [Hope begins in the dark]

念ずる先にある日

みずからに語り、つづる。

動機ではなく、抱負こそ。

修養する人になる

クリカエシビリティこそ [プラクティスの真髄]

ねがいのドリル