Learn to unlearn your “self”(じぶんを忘れる、を身につける)
立:「自己を忘れる=
大:身心脱落と表裏一体の、等しく、大切なことがあります。
立:ああ、それが
大:そうです。身心脱落するじぶん自身を、たしかめること。脱落身心であることです。
立:どうやって確かめるかというと、脱落する体験そのものによって、ですよね。
大:そうです。「身心脱落 AND 脱落身心」です。
立:なるほど、身心脱落が前工程とすると、脱落身心は、後工程ですね。
大:わかりやすく言えばそうですが、そのふたつは、一緒のこと(一如)です。
立:じぶんを忘れた、というだけではない。そのことを、確かめること。
大:確かめられるように、じぶんを忘れるのです。
立:自覚することですか。
大:そうです。証がないと修めたことになりません。
立:なるほど。だから「
大:はい。イコール(=)の等価記号です。体験と自覚は切り離せないのです。
立:ひとつのことだけれども、ふたつの側面で言っておいて、実はひとつなんだよ、と。
大:はい。道元禅師は、ものごとを逆転させるイマジネーションを明快な論理に集約します。
立:なるほど。でも、それをしくみとして捉えるには、まずステップの順にいくしかないですよね。
大:そうですね。だから、「身心脱落⇄脱落身心」と言ったのでしょう。
立:修=身心脱落(じぶんを忘れる)。そして、証=脱落身心(そのことを自覚する)。
大:証=自覚することによって、はじめて修=行為になるのです。だから「修=証」です。
立:やりっぱなしはダメですよ、というのとはちがいますか?
大:もちろん、それも含まれます。まずは。
立:証がないということは、実感のない行為ということになるわけですよね?
大:ええ。やりっぱなし以前に、しかるべき行為になっていない。
立:すこし、まとめてみました。
・(A) 身心脱落とは? なりきって、じぶんを忘れること。周りの世界の中に自己投出。
・(B) 脱落身心とは? そのじぶんを、ふりかえって自覚すること。そのじぶんになること。
・(C) 修証一如とは? (A)=(B)。 (B)によって(A)が支えられる。証のない修はない。
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出典・参照:道元『正法眼蔵』現成公案、「大和和尚との対話」(仏法ニコニコ講話 坂口立考編集)