Empathemian『共感の宇宙』

はなてば手にてり。

はじめに聞いた時、ふぅっと気が楽になり、救われました。「放てばいいんだよ」という響きです。
このことばは、「古いものを捨てたら、新しいものがやってくる」という意味ではありません。真理は外からやってくるのではなく、じぶんの中にある。所有物を捨てる話ではなく、心の出来事を整えること。

道元禅師『正法眼蔵』第1巻「弁道話」にでてきます。しかも「最上無為の妙術あり」(この上もない不思議な力に出会うことができる)と冒頭に前置きした上で、出てきます。どんなイメージなのでしょう。

私がやってみたことは単純です。1日1回「はなてばてにみてり」を声にするのです。それを1000回。一回、2秒ほど。たいした手間でありません。なので、1000日でも続きます。何が起きたかというと?

じぶんの中にあるのではない、じぶんがその中にあるということだったのです。仏法とか宇宙の真理と言うと抽象的で、イメージしづらいですね。真理とは、じぶんにとっての「共感素」だということに気がついたのです。

すべての物事は共感しあっている。心はつながっている。外からやってくるのでも、自分の中を探すのでもなく、もうすでに、その中に生きているのだということ。それが「縁」であり、自覚することだけ。

実は私は、誰もが「難解」だとする『正法眼蔵』に、何度かトライしたことがあります。多くの解説書があり、意味はわかります。でも実感がわきませんでした。それが、自分発(原因)でも自分着(目的)でもなく、そのわけへだてを放って、「共感の世界」から物事にふれ、かかわる気持ちが生まれてから、世界が違って見えるようになりました。正法眼蔵を理解するというより、その中にいたことに気づいたのです。

共感素とは、エンパシームという名前の素(もと)になった造語です。じぶんを包み、じぶんとふれあい、じぶんとつながっているすべてのことに、心をよせること。その行為が、共感する心を芽生えさせ、育てくれる。共感というと、思いや考えが先にあって、それが都合よく出てきてくれるかのような印象を抱きがちですが、実は、そうではなく、じぶんの心と体を動かして、そのことにハッキリ気づく時に、その一瞬のじかんが共感となるのです。

Let it go.

「もともと、つながっている。」

「わけへだてはいらない[心は自由]」

「作法そのものが学習である[すべてに共通するエッセンス]」

「共感の宇宙に生きている」

出典・参照:道元『正法眼蔵』、坂口立考『共感素がひらく路』

「正法眼蔵」