
だれもがみな、おなじように、
一度かぎりの、じぶんを生きている。
だれもがみな、共感するじぶん。
そして、つながりあう存在。
他者とふれあい、共にあることが
感じられる時、心がひらき、
じぶんとまわりの世界を
結びつける路ができる。
共感のはたらきが、じぶんを学ぶ路。
* *
エンパシームは、じぶんの後ろ姿をうつす鏡。
じぶんのふるまいに気づく時、未知に出会える。
エンパシームは、
サイエンス、アート、テクノロジーの支えによって、
じぶんと身近な人をはげまし、
助けあう循環をつくる。
エンパシームは、縁の路をひらく。
人間に備わった共感の力を引き出して
身近な社会にひらめきとふるまいをもたらす路。
* * *
「じぶんを生きている」とは?
ふだん「私が生きている」と思っているけれど、じぶんひとりで生きているのではない。
私たちはみな、全体の一部。ひとりひとりが、じぶんという、ひとつのいのちを生きている。
「だれもがみな、共感するじぶん」とは?
私たちは「自分中心のじぶん」としてだけではなく、「他者と共感できるじぶん」でもある。
他者もひとりのじぶん。じぶんもまた、ひとりの他者。まわりの存在と共にあるじぶん。
「共感のはたらきが、じぶんを学ぶ路」とは?
身のまわりのもの、他のいのちと共に生きているんだな、と感じられる時に、小さなじぶんの存在に気がつく。
私たちはみな「そういう気持ちになれる」という共感の力を持っている。
自分中心の意識を和らげないと、じぶんという存在の意味を学ぶことはできない。
共感の力がはたらく時、自意識はしぜんに和らぐ。
「じぶんの後ろ姿を映す鏡」って?
じぶん自身の姿は、鏡の前に立たないと見えない。
エンパシームは、鏡の役をする相手になって、いっしょに間をつくり、
その場・その時を自然な流れの中に映し出す。
心を磨くふるまいを、そっと見守る鏡。
「助けあう循環」って?
じぶんの身のまわりを手入れする小さなプラクティスが、
めぐりめぐって人を助ける。
じぶんから人を助ける心が、じぶんを助ける。
ひとりひとりの毎日の中に、無限の可能性がある。
「縁の路をひらく」とは?
まわりのものと共にあるじぶん。
それをふりかえる毎日がくりかえされていくうちに、
いままで気がついていなかったこと、「未知」にめぐりあえる。
いちばん身近なの未知は、じぶん。
そのことに気がつくと、いろいろなことがじぶんと結びついてくる。
縁の路がひらかれるのだ。
そのことに気がつくと、いろいろなことがじぶんと結びついてくる。
縁の路がひらかれるのだ。
「ひらめきとふるまいをもたらす路」とは?
サイエンスも、アートも、テクノロジーも、
じぶんの身のまわりの自然に宿る力にふれ、それを引き出し、活かすこと。
共にある、共にふるまう、共にはたらく、小さなじかんがひらめきに変わる。
だれもが、ひとりのじかんを、世界に捧げることができる。
エンパシームは、じぶんとテクノロジーを共に助けるフィロソフィー。
エンパシームは、じぶんとテクノロジーを共に助けるフィロソフィー。
出典・参照:坂口立考『エンパシームでひらく路』