Let it go.(行きづまったら、それを手放そう)
弟子:すべてを捨て去りました。無一物です。
師: 投げ捨てよ。「
弟子:もう何もないのに、何を捨て去れと?
師: 無一物とやらを担いでいきなさい。
(『従容録』「放下著」より)
立考:一喝、パンチを浴びせられる場面でしょうか。
大和和尚:「放下著」 (ほうげじゃく) という問答です。
立:師が修行者を戒めることばですね。
大:師は、趙州和尚(じょうしゅう)。弟子は、厳陽尊者(げんようそんじゃ)という修行者です。
立:何も持っていない、という意識も捨てよ、と。
大:
立:執着を捨てよ、こだわるな、ということですね。
大:放下著の「
立:なるほど。それだよ!と一喝しているのですね。
大:勝手に思い込んでいるじぶんに気づきなさい、と。
立:「こだわるな」という意識に、こだわるな、という、ことばの入れ子ですね。
大:その人にとって、いまいちばん大事なことですから。
立:いちばん気づきにくい急所をピンポイントでついています。
大:師は、補助役にすぎません。
立:じぶんで気づかないと意味がない。でも、じぶんのことが一番気づきにくい。
大:はい。そのことを含め、じぶん自身に気づくことが最も大切なこと。
立:私たちの日常に置きかえてみるとどうでしょうか。
じぶんという問題を解決するのではない
立:何か迷っているじぶん、悩んでいるじぶんがいます。
大:こだわりに気づけば、目の前の世界がスッキリとします。
立:でも、問題が解決するわけではない、と考えてしまうものですが。
大:はい。だから、その見方を反転させよう、と言っているのです。
立:問題は、何かに囚われているじぶんの方にある、と。
大:そうです。そもそも「問題は解決できるもの」ではありません。
立:自意識は、解決できる問題ではない、というわけですね。
大:その通りです。「問題」とは、戦って勝つための相手ではないのです。
立:問題自体をなくす、あるいは小さくして、平気になれるようにしたい。
大:こだわっている何かに、じぶん自身に気づくヒントがあります。
立:でも、それができれば苦労はないよ!と言われませんか?
大:私もそう思います。だからこそ、克服する意味があるのでしょう。
立:忘れよ、とらわれるな、と言われても、急にはできません。
大:はい。だからプラクティスがいるわけです。
立:気づく瞬間は、ささやかな出来事なのですね。
大:きっかけをつくる、小さなプラクティスがつながればよいのです。
立:気づくプラクティスですね。
ことばが相手
立:そもそも、何にこだわっているのかが、わからないのがふつうですよね?
大:ええ。だから、その何かをことばで捉えるしかありません。
立:自意識というのも概念。つまり、ことば。
大:それを捨てよ、というのもまた、ことばです。
立:ことばで対象化しないと、ものごとは捉えられない。
大:いったん、ことばで捉えたものに今度は囚われることにもなります。
立:ことばのおかげで「わかる」のに、わかるおかげでとらわれる。
大:執・囚・捕、といった字を書きますが、対象との関係に固定されるわけです。
立:ことばにできる限り、概念として対象化できてしまう。
大:表裏一体です。
立:放下著の話は、もう何もない、「無一物」ということばにとらわれていたのですね。
大:あるところまでは、それが力になってくれました。修行者ですから。
立:で、行き詰まった。その時、そこから離れてごらん、と言っているわけですね。
大:そうです。
立:日常生活で、そのような親身なアドバイスをもらえることは稀です。
大:はい。その代わり、助けになることばがたくさんあります。禅はその宝庫です。
立:ええ、そうですね。でも「放下著」では、むずかしすぎますよ。
大:日本語の世界では、書きことばが主体。たいていは漢字熟語です。
立:力をかしてもらう、アドバイスの前に、ことばの勉強になっちゃいますね。
大:妙案はありません。
立:英語には、Let it goというフレーズがあります。
大:解き放て、といったかんじでしょうか。
立:この間、お父さんが3歳のこどもに言っているのを耳にしました。
大:ほう。それぐらい、よく使われることばなんですね。
立:放っておきなさい、かまうな、あきらめよ。いろんな場面で使われます。
大:じぶんで変えられないものは、そのままにせよ、というイメージでよいですか?
立:そうです。はげましのことばです。じぶんで自分に語りかけることばにもなります。
大:捨て去れ、解き放て、といったことば自体が気軽ではないですね。
Let it go.(そのままに)
立:禅の問答は、シャープに切り出してきたお話でインパクトがあります。
大:ほとんどは、話を逆転させる、場を転換する、といったストーリーです。
立:でも、そこには師弟関係や、場のコンテクストがありますよね。
大:ええ、その通りです。むずかしい、思考の練習だけではありません。
立:突き放すように見えるけれど、対話だからこそ、成り立つのですね。
大:私も長らく、放下著は「執着をとにかく捨てよ」という戒めだと受け止めていました。
立:手放しなさい。それは、行きづまっていない人に向かってかけることばではないんですね。
大:行きづまっている相手に、親身にかけてあげることばだからこそ、放下著なのです。
立:行きづまったら、思い出してごらん、と言われると受け入れやすいです。
大:本来は、そういうことなんですが、やはり、日本語の特徴でしょうか。
立:カタカナのことばも日本語なのですから、使いやすいものを取り入れたらよいと思います。
大:それはいい考えですね。仏法もサンスクリット語の音を写してきたわけですので。
立:テクノロジーも日常の環境で「じぶん自身に気づく」修養の補助ができます。
大:修養のプラクティスですか。放下著は、修行です。
立:Let it go. は、修養。
大:修行は、仏法(安らかに生きる)のプラクティス。
立:修養は、小さな、ことばとふるまいのプラクティス。
自己をならふというは自己をわするるなり①[心身脱落は「じぶんを忘れよ」ではない]
出典・参照:「放下著・大和和尚との大和」(坂口立考編集)、『従容録』、Book of Equanimity (Thomas Cleary)、『毎プラガイド』
従容録について(日本語のWikipedia記事がありませんが、英語に詳しく掲載されています)