Empathemian『Marcus Aurelius』

じぶんの身に何かが降りかかった時。

どんなことばでじぶんに語るかで、受けとめ方が180度ちがってきます。

Not, ”why do things happen to me?”(何で、こんなことが起こるんだ!ではなく)

Well, things happen for me.(きっと、じぶんのために起きるんだ)

マルクス・アウレリウス『自省録』のことば。

「自分に起ったことを悪いことと考えさえしなければ、私はまだ何の損害も受けていない。そう考えない自由が、私にはあるのだ。」

じぶんの身に起きていることは、世間や常識がどう言うかではなく、じぶんで捉える(ことばにする)こと。
その可能性、その自由、そうする意味が、じぶんにある、というのです。
そのように言うことで、みずからを励ますことができます。

これは、「気にしなければいい」「ものごとは自分次第だ」と理解するのとは、だいぶ違います。

そのことばが「考えるというアクション」、そして「みずからに語りかけるアクション」になるかどうか、なのです。

たとえば:

(A) 気にしないでいいよ。

(B) 捉え方次第。

(C) そのように考えない自由がある(じぶんで決めることができる)

(A) や (B)は、状況を理解するだけで、じぶん自身にむけたアクションになりません。
物事は、そう思えれば、楽になるはずのところ、なかなかそうはいかないものです。
なぜかといえば、アクションになっていないので、あたまで理解しただけになってしまうのです。

周りの人が言うのとは、違う風に受け止めることは、とても勇気のいることです。
勇気は、プラクティスによって、生まれて来るものです。
価値のあるアクションをしているんだ、ということを、じぶんに伝えるプラクティスをしないかぎり、突然、自由に考えることはできません。

私たちは、ものごとをことばでフレームしています。(*注1)
ことばを使い、じぶんでじぶんの考え方の土台をつくっている、と言い換えることができます。
(C)のように、自然にそちらに方向づけられるのには、じぶんに伝えることばが力になってくれます。

(A)や(B)は、頻繁にでてくることばでありながら、ほとんど助けになってくれないのは、そのようにしてわかっているつもりでいると、行動になりにくいということなのでしょう。

じぶんをはげますことばは、ひと息で声に出して言えることばに限られます。
長いことばは覚えきれませんし、じぶんにむけて語れないからです。
文章にして書きつづる時も、その中で、じぶんにむけて語るセリフは、一行単位です。

あわせて、ごらんください。

「みずからに語り、つづる。」

「ハーモニーとは、生きていること」

「ゆっくり、パッとひらめく。」

「わたしたちは、みな限定的なじぶん。」

「感情とは「感覚の意味づくり」のこと」

出典・参照: Marcus Aurelius『Meditations』(マルクス・アウレリウス『自省録』)

(*注1) 同じ出来事について、どういうことばで表現するかで、判断に大きな影響を与えます。
ことばが行動の「フレーム」になることは、行動経済学、心理学の実証研究があります。

「マルクス・アウレリウス」