Empathemian『チロル谷』

修養のエッセンスは、静かにすわり、大切に思うことばを声にして、それをじぶんで聞き、くりかえしふりかえること。

なぜ、声にして出して、それを聞き入れるのでしょうか?

それは、その時その時の声のふるまいが、じぶんの「ことばの姿」だからです。

小林秀雄『考えるヒント』に「言葉」というエッセイがあります。

「本居宣長に、「姿は似せがたく、意は似せやすし」という言葉がある。ここで姿というのは、言葉の姿のことで、言葉はまねしがたいが、意味はまねしやすいというのである。ふつうの意見とは逆のようで、ふつうなら、口まねはやさしいが、心は知りがたいというところだろう。」

「宣長は言葉の性質について深く考えをめぐらした学者だったから、言葉の問題につき、無反省にもっともらしい説をなす者に腹を立てた。そんなことをえらそうに言うのなら、本当のことを言ってやろう。言葉こそ第一なのだ、意は二の次である、と。」

「言葉は、まず似せやすい意があって、生まれたのではない。誰が悲しみをまず理解してから泣くだろう。ます動作としての言葉が現れたのである。動作は各人に固有のものであり、似せがたい絶対的な姿をもっている。生活するとは、人々がこの似せがたい動作を、知らずしらずのうちに、限りなく繰り返すことだ。似せがたい動作を、みずから似せ、人とも互いに似せ合おうとする努力を、知らずしらずのうちに幾度となく繰り返すことだ。その結果、そこから似せやすい意が派生するにいたった。」

「実際、子供はそういう経験から言葉を得ている。言葉に習熟した大人が、この事実に迂闊になるだけだ。言葉は変わるが、子供によって繰り返されている言葉の出来上がり方は変わりはしない。子供は意によって言葉を得やしない。真似によって言葉を得る。この法則に揺るぎはない。大人が外国語を学ぼうとして、なかなかこれを身につけることができないのは、意から言葉に達しようとするからだ。」

「子供にとって、外国語とは、日本語と同じ意味を持った異なった記号ではない。英語は見たことも聞いたこともない英国人の動作である。これに近づくためには、これに似せた動作をみずからおこなうよりほかはない。まさしく習熟する唯一のやり方である。」

私たちは、ふだん、意味を知っていることでわかったつもりになっています。
その一方で、人から何か言われると、その人が何を言ったかよりも、そのふるまい、言い方、細やかな声の調子のほうが気になります。
でも、それにもかかわらず、なぜかじぶん自身のことばは、じぶんでしっかりと聞いてみようとすることがありません。

ことばは意味がはじめからあるのではありません。姿があって、はじめて「意味になる」のです。

じぶん自身の修養にむずかしいことは、ひとつもありません。
赤ちゃんの時からしていたことを忘れているだけなのです。
ひとことずつ、声に出して、じぶんで聞くことです。
声をきけば、じぶんのことが、もっとよくわかります。

Just say hi to yourself. (ひとこと、じぶんにあいさつするだけで)

「絵に映る心」

「身体に丸ごと取り込むことから」

出典・参照:小林秀雄『考えるヒント』

小林秀雄