Practice what you learn.(知識は実践して身につけるもの)
意味もわからず、丸暗記するのは、よくないこと?
意味だけ教わったら、丸暗記などいらない?
果たしてそうでしょうか?
いかなる学びにも共通の原理があります。
いちばん基本的な動作を覚えない限り、何も習得できない、ということ。
野球なら、キャッチボール。
料理なら、包丁の使い方。
ふだんの生活には、ことばを使えること。
あたりまえのようですが、それらを「丸暗記」とは呼びません。
ひとつのまとまりを、まるまると身体で覚え、心に刻むこと。
暗記ではなく、心身の記憶。
小林秀雄さんは、こう言います。
「暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは『論語』の意味とはなんでしょう。
それは人により年齢によりさまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかってもわからない意味さえ含んでいるかもしれない。
それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。
そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかもしれないが、私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っています。
『論語』はまずなにをおいても、万葉の歌と同じように意味を孕んだ「すがた」なのです。
古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。
「すがた」に親しませるということができるだけで「すがた」を理解させることはできない。
とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずです。
実際問題としてこの方法が困難になったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることは出来ないはずなんです。
古典の現代語訳というものの便利有効は否定しないが、その裏にはいつも逆の素読的方法が存するということを忘れてはいけないと思う。」
声にして身体に丸ごと取りこみ、それを身体から出して、身につける。
声にだして、それを聞き入れる。
文字に頼らずに、言えるようになること。
古来より、最も確実で信頼性の高い学びのメソッドです。
「丸暗記」というラベルをはって、勘違いしているとしたら、実にもったいないことです。
二重の勘違いと言えるかもしれません。
大事なことは「暗記」ではありません。
しかし、そのように言ったたために、まるまる身体で覚えることそのものを軽んじてしまいます。
Output what you input, input what you output.(身体を使った出し入れが、まなび)
声に出して、はじめて、脳内の処理が活性化されます。
ことばは、微細な音の連続現象です。
声によってこそ、文字もイメージも結びつけられます。
Develop your inner speech.(インナースピーチを育む)
出典・参照:小林秀雄・岡潔『人間の建設』、以下のエンパレットなど
耳順(耳したがう)とは?①(人のことばをじぶんの声にかえる)