「ルーティンを忘れることもありますよ。」
あるテニスプレイヤーのコーチから聞いた話です。
コート、天候、対戦相手、自分の調子。いろんな状況がある。
選手は状況に応じて心を落ちつけられることが大切。
無意識にできるように、日々練習を積んでいる。
決まった所作を繰り返して身につける。
「覚えている」ということを忘れているかのように。
それが、ルーティン (Routine) すなわち「作法」です。
私たちの日常にも、実は色々なルーティンがあります。
例えば、歯磨き。わざわざ、覚えていなくても、忘れることはほとんどありません。
覚えている、ということを忘れているぐらい、身についています。
実はそれは、自分ひとりでやっているのではありません。
環境と共に覚えているのです。
寝る前、洗面所に行けば、自然に思い出せる。
それが所作になります。
鏡や歯ブラシは、そこに、存在としてあることで、合図を出しています。
時間と場所を示す存在。
存在という合図のおかげで、私たちは難なく思い出せるのです。
思い出や想像も、自力で「記憶のライブラリー」からひっぱり出しているのではありません。
環境とのやりとりによって、想像が記憶として現れてくるのです。
ジェームズ・ギブソンは、お互いが補って、作用しあう関係、その状態を「アフォーダンス」と呼びました。
魚だけが、ひとりで泳いでいるのではない。
水だけが、魚を泳がせているのでもない。
魚は水と共にあるのです。
魚は、アフォーダンスと共に、泳いでいるのです。
道元禅師は、こう言いました。
「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなし。鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。
しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。」
正法眼蔵の、いちばんはじめのほうに出てきます。
なんどもなんども現れるアナロジーのひとつです。
魚が水を行く時には、いくら泳いでも水の果しはなく、鳥が空を飛ぶ時、いくら飛んでも空に限りはない。
しかし、魚や鳥は、いまだかつて、水や空を離れたことはない。
じぶんは、身辺と共に、じぶん。
じぶんとは、周囲の空気もふくめて、じぶんです。
私たちは、私を包む空気と共に、私たちなのです。
私たち人間にできることは、アフォーダンスをもっと引き出して、じぶんを活かすことです。
じぶんは、周りの空気と共にある。
You don’t need to remember all the things. They remember you. (なんでも覚えようとしないで大丈夫。まわりが覚えていてくれる)
出典・参照:James Gibson 『The Senses Considered as Perceptual Systems』、道元 『正法眼蔵』「現成公按」、以下のエンパレットなど
「相手と共に紡ぎ出すことば (身のまわりの時間と空間のアフォーダンスによって)」