I am time. We all are.(人はみな、じぶんの存在が時間)
道元禅師『正法眼蔵』のことばから。
時すで有なり、有はみな時なり
立考:時間とは存在、存在が時間である。
大和和尚:はい。生きていること、そのものが時間です。
立:一瞬一瞬の行為が時間だという意味ですね?
大:だれかの時間ではなく「あなたのじかん」です。
立:「じぶんが生きている」という時間。
大:人間だけではありません。
立:すべていのちあるもの。
大:生物だけでなく、すべてです。
松も時なり、竹も時なり
立:時間とは、移りゆく流れという捉え方ではないのですね?
大:そこにあること自体です。そこにあるものすべて。
立:あらゆる存在のひとつひとつに世界がある、と。
大:そうです。だから「松も時なり、竹も時なり」です。
尽地に万象百草あり。
一草一象おのおの尽地にあることを参学すべし。
立:世界にはさまざまな草や形がある、という意味ですか。
大:ええ。一本一本の草に、ひとつひとつ形あるものすべてに全世界がある。それを学ぶのが仏道の修行です。
立:草の名を知らずとも、その形が何であるかわからなくてもよいのですね?
大:そうです。まさに、いま、この時にその形が現れているのですから。
立:いまという時間から離れている存在はない、と。
大:はい。存在はいまという時間とおなじです。
立:時間と空間は一体。
大:時間と存在が一体です。
山も時なり、海も時なり
時がなければ、山も海もない。
山も海もなければ、時もない。
どちらか片方だけがある、ということはない。
立:なるほど、すべて、このパターンなんですね。
大:道元禅師はことばを尽くして伝えようとしています。
立:むずかしく考えることではないのですね。
大:むずかしく考えようとすると、ことばが入ってきません。
大:道元禅師が時間を語るとき、経歴ということばが出てきます。
立:経歴ですか。
大:「けいれき」ではなく、「きょうりゃく」といいます。
立:時間の概念ですか?
大:時間は通り過ぎるもの、ではありません。
立:すると?
大:あり方のことです。
立:存在のあり方というかんじ?
大:経歴は春のごとし。
立:春という季節。
大:様々な現象を思い浮かべますね。
立:木々の芽吹き、鳥のさえずり、小川のせせらぎ、暖かい風。
大:そのような時の全体。そのあり方が経歴です。
立:単に、流れゆく、というイメージではなく、ですね?
大:すべてを包んでいる世界です。
立:功徳とはどういう意味でしょう?
大:はたらきです。
立:存在するとは状態として現れ出るはたらきだ、というのですね。
大:時は経過ではなく、あり方のことです。
時のすでに有なり、有すでに時なり
立:ふだん、そんなふうに受け止めていません。
大:ここにないことを、いまでないことを考えていますね。
立:それは変えられそうもありません。
大:はい、そのとおりです。だから、プラクティスするのです。
立:そのように感じられるようになる、プラクティスですね。
大:そのために、ことばがあります。
We don’t have time. We are time.(時間は持ち物ではなく、じぶんという存在の働き)
どんなプラクティス?
時間の最小単位は、存在の最小単位。
生きていることを感じる時間。
それは、ひと息のじかん。
ひとことのじかんです。
声に出してみるとわかります。
山も時なり、海の時なり、と。
ひと息分のじかん。
出典・参照:道元『正法眼蔵』「有事」の巻、「大和和尚との対話」
自己をならふというは自己をわするるなり①[心身脱落は「じぶんを忘れよ」ではない]