We’re always somewhere in time. (いつだって時間を超える想像を生きている)
『Somewhere in Time』 は、想像の愉しみを味わえる映画です。
脚本家をめざすリチャード・コリアーの初上演記念パーティー。
ある老女がリチャードに歩み寄り、懐中時計を手渡してこう言った。
Come back to me.(私の元にもどってきて)
誰なのか、だれも見当がつかなかった。
その夜、ホテルの一室で、彼女は静かに息を引き取った。
思い出の曲と、脚本を胸に抱いて。(注1)
8年後、リチャードは、気晴らしに車で旅に出る。
ミシガン湖畔のグランドホテル。
ホテルの歴史展示室で、ある肖像写真に引きつけられた。
1912年、このホテルで開かれた演劇の主演、エリーズ・マッケナ。
その微笑が頭から離れない。
リチャードは、調べていくうちに、あるものに遭遇する。
1912年の宿泊名簿。
そこに、じぶんの名前があったのだ。
I was there.(ぼくはそこにいたんだ!)
1912年のじぶんになりきることで、リチャードは時間を超えます。
「思い出の曲」が波のように、くりかえされる間の出来事。
「タイムトラベル」をテーマにした小説、映画、歌はたくさんあります。
『Somewhere in Time』もそのひとつです。
現実には起こらない、想像上の夢物語。
でも、本当にそうでしょうか?
私たちは、いつでも過去を思い出し、未来を想像することができます。
いつも、いつも、くりかえし、くりかえし、時間を往来しています。
頭の中で時間をさかのぼったり進めたりできること。
「メンタルタイムトラベル」は、人間に固有の能力です。(*注2)
いま何を考えているのか、それを話せること自体が、すでにメンタルタイムトラベルです。
頭の中で、思いや考えをことばの「入れ子」にして、何度でもくりかえせるという能力。
私たちはいつも、想像の夢物語を生きています。
映画は、映像と音とセリフによってストーリーを演出し、他者と心を共有できるところが、すこし違うだけ。
でも、やっぱり、時間を超えることなどできない
いいえ、そんなふうに、思う必要もありません。
それは時間という概念もまた、想像の夢物語の一種だと思われるからです。
私たちは、時間という川の流れのようなものが先にあって、そこを往来するような想像ができる、と考えますね。
だれに教わることもなく、そのように思い込んでいます。
でも実は、往来できるような気がするからこそ、時間として感じるのです。
時間は、よく、川の流れにたとえられます。
ふりかえることは、時間をさかのぼること。
川の流れをさかのぼろうとすると、流れにさからって進むことになります。
一方、時間をさかのぼってふりかえる時、記憶はさかさまにはなりません。
過去の思い出も、未来の想像も、流れにさからうことはありません。
つねに瞬間移動です。
生きていること自体が、タイムトラベル。
タイムトラベルできるからこそ、その営みが起こる場を時間と呼ぶのです。
時間は、想像の脚本。
じぶん固有の台本。
タイムマシーンにのらなくても、自由に往来できます。
生きていることがタイムカプセルをつくり続けることなのですから。
So much fun to imagine.(想像こそ、たのしい)
Fun to Imagine (3) 未来はチャンスとトライの組み合わせの妙
出典・参照:『Somewhere in Time』 (邦題・ある日どこかで)
(*注1)セルゲイ・ラフマニノフ『パガニーニの主題による狂詩曲』
(*注2)エピソード記憶という概念を提唱したエンデル・タルビング博士が「メンタルタイムトラベル」ということばを使ったのは、1985年のこと。意外にも、Somewhere in Time (1980) よりも後のことです。
マイケル・コヴァリス博士は、人間のメンタルタイムトラベルは、遠い昔に起源をもつ適応能力だと言います。意識と無意識のあいだで「Mind wandering」が起きる。その一環にメンタルタイムトラベルがある。wanderとは、注目したものから目が離れること(意識と無意識のあいだの状態。ぼんやりした状態も含まれます)。ちなみに、フランス語やスペイン語で、たのしみ(fun)のことを、diversionと言います。道からそれること。想像するたのしみは、ふだんの道をそれたり、タイムトラベルすることです。