It is as hard to see one’s self as to look backwards without turning around.
振り返らずに後ろを見るのと同じくらい、自己を見ることはむずかしい。
ヘンリー・ソローのことばです。
哲学者ルネ・デカルトに代表される近代。
「自分」は「私」によって定義されるようになったと言われます。
どういう意味?
「自分」=「私」。
「私」は「自分」のことを、すべてわかっている、と。
当たり前のこと?
実は、それがいちばんむずかしいのです。
当たり前のことは、明確なイメージとして湧き上がらないからです。
ふりかえらない限り、見えない存在。
自分です。
正高信男さんは、こう説きます。
「運動性言語中枢の発生は、人類史上画期的だった。
たんにおしゃべりをするという行動を可能にしただけでなく、
他人の行為の理解を促し、ことばの意味の把握が実現されるようになった。
そして、相手の、なじみのある身体の動きを抽出する能力、「なぞる」ことができるようになった。
なぞって、はじめて、他者の意図を自分なりに理解できる。
言語の本質は、外界の事物を客観的に表現することではない。
それは、およそ人間行動の文脈にそぐわない。
ことばのやりとりが、他に比類のない情報伝達手段であるのは、それ以外では達成不可能な参与者の共感をもたらすからである。
他者の動作やしぐさを人間が共鳴するがごとく体感できること。」
共感がことばの原点であり、土台です。
ことばのやりとりが、さらに共感を高めます。
「私」があって、ことばがあるのではありません。
ことばがあって、その中にじぶんが存在します。
他者・相手が「私」より先にあったのです。
それは、人類がことばを使うようになってから、今でも、変っていません。
でも、じぶんのふるまいは、見えません。
何もせずには、気づきようがありません。
じぶんを見えるような仕掛けが入ります。
鏡や写真に写したり、
だれかに教えてもらったり、
じぶんの記録をふりかえったり、
ちがいを比べたり。
エンパシームは、じぶんを見えるようにするものです。
うつして、ふりかえり、たどること。
他者とのふれあいで、じぶんが見える。
出典・参照:Henry D. Thoreau Quotes、正高信男『ヒトはいかにヒトになったか』、以下のエンパレットなど』