5歳の頃、私の家は「井戸水」でした。
手押しポンプの柄は、へびのようなかたち、いえ、ウルトラセブンの頭にのっていた飛び道具的「アイスラッガー」のようなかたちでした。
その把手をつかんでいったん上むきにひっぱり、それを振り下ろすと、勢いよく水がでてきます。
小さな手からは水が溢れてしまいますので、はじめに、下にたらいを用意します。
手からこぼれる水が、下のたらいの中に落ちるように、姿勢に細心の注意を払います。
指先全部にピンと力をいれ、隙間ができないように。
しっかりと手をくっつけ、その手をボールを包むような丸い形にして、手と手をつなぎあわせた部分に、そっと口をつけて、水をすすって飲むのです。
手のかたちは、自然に、それ以外にはないという、かたちになります。
手のかたちが、水のかたち。
それが、「水の作法」でした。
井戸のレバーを押して、体をかがめて水をすする姿勢、ひんやりした水が体の中に染み込んでいき、たらいに水がこぼれ落ちた様子を確認する、ほんのひと時の流れが、ひとつの作法でした。
井戸の水はいつもひんやりとしていて、そのひんやりが、水のおいしさでした。
いまでも「大切」ということばを聞くと、ふとあの状況を思い出すことがあります。
手でつくった小さな器ぶんの水が、「大切」ということばの響きに結びついているのだと思います。
水を包む手のかたちが、作法の原点に。
Your act is your self.
出典・参照:坂口立考 『海の宮』エッセイ「水の作法」