Light and Dark

Cause is hidden causality. (偶然に生きる)

ひらめきの源泉 ④ 漱石のサイエンス=アート=プラクティス のつづき。
このシリーズの最終編です。

夏目漱石『明暗』の冒頭に出てくる主人公のセリフ。

「世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。」

アンリ・ポアンカレの著作『偶然』に着想を得ています。(*注1)

偶然とは何か?

因果が複雑すぎて、人間には偶然としか見えない状態のこと。

原因の数が多すぎる、絡みすぎている。
初期条件のわずかな差が大きな違いを生む。
だから、人間には見通せない。

つまり、偶然とは「原因がない」のではなく、原因が複雑すぎるため、偶然と呼ばれているという考え方。

偶然とは、見えないほど複雑な因果である。
そのように、ポアンカレは言うのです。

Light and Dark

We live in the unknown.(わからなさの中に生きる)

「偶然?ポアンカレーのいわゆる複雑の極致?何だか解らない」

私たちは、無数の条件と見えない因果の網の中で動かされている。
「偶然」は、ただの運・不運ではありません。

自分で選んだつもりの人生。
じつは見えない因果の網の中にあるのではないか。

しかも、その因果は、外からの運命だけではない。
自分の心の中の暗い部分も含んでいる。
未練、執着、虚栄、依存、惰性、自己欺瞞。

自分の人生がわからない、という不安。

自分という人間の、自我の限界。
人間という存在の「明と暗」。

人生は「わからなさ」を生きること──

Light and Dark

The unknown is inspiration. (わからないから、ひらめく)

漱石とポアンカレの時代から、100年あまりをへた現代。
偶然は、どのように考えられているでしょうか?

偶然には、3つの捉え方があります。

① 見かけ上の偶然
因果の筋道はあるはずなのに、複雑すぎて見えないもの。
これは、個人の認知や心理の中で日常的に経験する偶然です。
『明暗』に描いている世界は、今も変わりません。

② 統計的な偶然
出来事を一つずつ説明することはむずかしい。けれど、たくさん集まったデータで、偏りや割合、起こりやすさが見えてきます。
社会は、そうした確率的な傾向を扱うことで成り立っています。天気予報、保険の計算、AIの回答も、その典型例です。

③ 量子的な偶然
原子や電子のような、目に見えない小さな世界で、偶然が見かけではなく、自然そのものに属するのではないかと問うものです。量子論は、世界はただ複雑すぎて見えないのではなく、確率的にしか語れないことを前面に押し出しました。

偶然は、ひとつの答えにはなりません。
わかることと、わからないことは、いつも隣あわせです。
光がなければ、暗闇もなく、闇がなければ、光もない。

小説『明暗』は、漱石の死と共に、未完に終わりました。
が、未完とは、閉じていない、ということでもあります。

未知にひらかれているのです。

私たちは、わからなさの中で、生きています。
私たちは、未知だからこそ、インスピレーションを育むことができます。

生きていることの意味も、そこにあります。

Light and Dark

The unknown remains open.(未知はひらかれている)

実は、ポアンカレ自身も、偶然とは「見逃した小さな原因が、大きな結果を生むとき」に人がそう呼ぶのだ、と述べています。つまり偶然とは、出来事がただ複雑な因果でできている、というだけではありません。そこから何を取り出し、どんな意味を見出すか、ということでもあるのです。

寺田寅彦が追悼のことばで心から惜しんだように、漱石がもう少し長く生きていたら、『明暗』に描かれる世界にも、新たな素材が加わったかもしれません。

その理由のひとつは、漱石の死後わずか十年ほどのあいだに、科学の世界で革命的な発見が相次いだからです。(*注2)

1919年、皆既日食観測を契機に、アインシュタインの一般相対性理論は世界的に知られるようになりました。また、ポアンカレと同じく、アインシュタインも偶然を、たんに「原因のない出来事」としてではなく、人間には見通せない秩序の問題として受けとめていました。

しかしその後、ボルン、ハイゼンベルク、ボーアらの量子論は、自然そのものが確率的にしか語れない可能性を前面に押し出します。アインシュタインは、その考えに最後まで抵抗しました。「神はサイコロを振らない」ということばで知られます。

漱石のそばには、いつも、寺田寅彦という物理学者がいました。もし漱石がもう少し長く生き、この「偶然か否か」をめぐる新しい物理学の論争に接していたなら、『明暗』の世界にそこからの着想が入り込まなかったとは、むしろ考えにくいのです。

亡くなる一か月ほど前、漱石は手紙に「『明暗』は長くなるばかりで困ります」と記しています。しかも主人公・津田はまだ三十歳です。物語は、閉じるというよりも、「まだわからない」状態にありました。漱石は、科学革命の「偶然か否か」論争に、ある時、偶然のように耳にすることになったでしょう。それが、物語に新たな光と影を投げかけたかもしれません。

Light and Dark

There’s only living.(生きることだけ)

ポアンカレ研究所で研究した物理学者・渡辺慧は、このように言います。(*注3)

「因果性と目的性は、ひとつの事実のふたつの面である」

(A) 因果性(何をしたら、どうなるか)「原因→結果」で考える
(B) 目的性(どうなりたいから、何をするか)「手段←目的」で考える

(A) と (B) は、別個のものではなく、同じひとつの現実の両面だということです。

「世界は因果性である。時間は目的性である。」

世界には、原因と結果のつながりがある。
時間には、どこへ向かうかという方向がある。

私たちは、その両面を同時に生きています。

どう転んでも、じぶんの道。
どちらを選んでも、じぶんの未知。

夏目漱石の作品にちりばめられた、科学の素材で構成されているエピソードに着想を得た「ひらめきの源泉ー漱石のサイエンス=アート=プラクティス」。

インスピレーションの源泉は:
(1)見えないものを見ようとする心に。(実験・配慮)
(2)問いのある語らいの中に。(雑談・問い)
(3)互いのやりとりの中に。(相手・共感)
(4)時と場を超えた記憶の中に。(手紙・謙虚)
(5)わからなさを生きる中に。(偶然・未知)

私たちは「わからない」からこそ、生きているのです。
「わからない」中にこそ、インスピレーションの源泉があります。

今回はこれで、一括りにします。

出典・参照:夏目漱石『明暗』(青空文庫)、アンリ・ポアンカレ『科学と方法』『科学者と詩人』、渡辺慧『時間と人間』
関連するエンパレットなど

夏目漱石『明暗』(青空文庫)
寺田寅彦『夏目漱石先生の追憶』
中谷宇吉郎『光線の圧力の話


ひらめきの源泉 ① 漱石のサイエンス=アート=プラクティス 
ひらめきの源泉② 漱石のサイエンス=アート=プラクティス
ひらめきの源泉③ 漱石のサイエンス=アート=プラクティス
ひらめきの源泉④ 漱石のサイエンス=アート=プラクティス

(*注1) ジュール・アンリ・ポアンカレ(Jules-Henri Poincaré)は、フランスの数学者・数理物理学者 (1854-1912)。トポロジー(位相幾何学)の基礎を築いたほか、多くの業績で知られています。

1915年、寺田寅彦は『東洋学芸雑誌』に、ポアンカレの著書『科学と方法』から「事実の選択」「偶然」の抄訳を載せています。

ポアンカレは、『科学と方法』で、たとえば次のようなことを述べています。

❶ 「事実の山」ではなく「意味のある事実の選択」が大切であること
❷ 発見は機械的計算だけではなく、無意識や直観によって「見える」瞬間を含むこと
❸ 偶然は出来事そのものにあるのではなく、そこから何を取り出し、どんな法則を見抜くかによって意味をもつこと
❹ 科学的方法は、単なる手順ではなく、ばらばらの現象のあいだに秩序を見出す営みであること

(*注2) 漱石の死後10年ほどのあいだには、次のような画期的な出来事がありました。

1919年 アルバート・アインシュタイン(皆既日食観測・一般相対性理論の発表)
1924年 ル・ドブロイ(物質波仮説。粒子と波の二重性)
1926年 エルヴィン・シュレディンガー(波動力学。量子状態を波動関数で表す理論)
1926年 マックス・ボルン(波動関数の二乗を確率と解釈)
1927年 ヴェルナー・ハイゼンベルク(不確定性原理)
1927年 ニルス・ボーア(相補性・量子論の確率的理解)

(*注3) 渡辺慧(1910-1993)数学者・物理学者。ポアンカレが築いた学問的思想を受け継ぐ場で学び、その科学思想を、現代物理学や情報理論の視点から捉え直そうとしました。