Ceci n’est as une pipe (René Magritte, 1929) @artinstitutechi

Everything we see hides another thing.(見えるものが他のものを見えなくしている))

こんな絵があります。
パイプですね?
いいえ、ちがいます。
これは、絵です。パイプではありません。

「これは、パイプではない」という絵。
絵のパイプですよ、と。

ん?
なぜ、わざわざ、そんなことを?

ふだん私たちは、忘れているからです。
いえ、気づかないまま、過ごしているからです。

何に気づいていない?<

現実の世界は、これに似たことだらけです。

文字、写真、映像。
情報は現実が表現されたものであって、現実そのものではありません。

あたりまえ?
そうです。私たちは、そのあたりまえのことを忘れています。
忘れているというより、現実であるかのような錯覚を抱いています。

知識についてもおなじことが言えそうです。
だれかに教えてもらって何かの知識をうる、という言い方をしますね。

でも、知識は「もの」ではありません。
身につけ、それを使うことができてはじめて「知識」です。

ところが、情報を入手することが知識だと勘違いしています。
知っていると思っているだけでは知識ではありません。
知識という名の錯覚を抱いているのです。

上のイラストは、マグリットのパイプに似せて描いたものです。
文字で書かれたことばは、知識のタネ。
じぶんの心の中で芽吹いてはじめて知識化されていきます。

ことばは、現実を表現します。
ひとり歩きして、錯覚もひきおこします。
だから、じぶんで声に出して使って育てる必要があります。

プラクティスということばも、そうです。
じぶんでやらないことは、プラクティスではありません。

やったつもりになっているだけ、ということが起こりがちです。
時々、マグリットのパイプを思い出してください。
あるいは、知識と書かれた大きな袋を抱えるじぶんの姿。
鏡に映ったじぶんの絵を。

出典・参照:以下のエンパレットなど

知識は入手する「もの」ではない (Knowing thatを、Knowing how に変えよ)

グローバル〇〇(じぶんの心が関わり、つながること)

鏡に映るじぶん(1)[意外な事実の発見]

身体に丸ごと取り込むことからこそ(覚えることの二重の誤解)

夢の話が不思議というより、不思議に思わないから夢。

René Magritte