Quaecumque sunt vera.(すべて真実のことは、心にとめよ)(*注1)
エンパレットは、仏法からのエピソードもたくさん紹介しています。(*注2)
それらは、仏教にとどまることなく、広く、真実を語るお話です。
おなじように、聖書にも宗教の枠を超えた、普遍的な英知があります。
Whatever is true. Keep in mind.(どんなことであれ、真に大切だと感じられることは、心にとめなさい。)
新約聖書には、初期キリストの使徒パウロによる書簡が収められています。
当時、ローマ帝国内のキリスト信者は迫害を受けていました。
パウロは、獄中から植民都市フィリピの信者にあてて手紙を書きます。
信じる心を大切に。
それはとても勇気のいることです。
何をしたらよいのか。
パウロは、信じる行いをはげます具体的な教えを説きます。
・本当のこと
・尊いこと
・正しいこと
・純真なこと
・愛すべきこと
・ほまれあること
・徳のあること
・ほめるべきこと
どんな些細なことであれ、
それらのことに出会ったら、心にとめるように努めなさい。
パウロは、具体的な行いによって信じる心は喜びになると言うのです。
パウロは、「すべて真実のこと」と言います。
真実とはどんなことを言うのでしょうか?
辞書を引けば出てきます。
また、真実(truth) と 事実 (fact)のちがいを説明した記事なども見かけます。
・事実は客観的な、真実は主観的。
・事実はひとつだが、真実はいくらでもある。
・事実は起きたこと、真実はウソではないこと。
なるほど。
ただ、大切なポイントは、むしろ両者を同列で並べることではなさそうです。
事実は起きたこと(起きたと思われていること)で、日常のあらゆることについて使えることばです。
一方、真実は「ほんとうに感じている」ことですから、それほどたくさんあるはずありません。
大切さを心から感じる日々を過ごしていること。
そのように、限られたことにしか、真実ということばはあてはまりません。
また、未知のこと、不思議や、ありがたく感じること。
いずれも、じぶんの心の次元で意味を持つことばです。
ただ主観的に思っていれば、真実になるわけではありません。
だれもが日常関わる、事実という捉え方では捉えられない、心の次元で感じることなのです。
パウロは、心にとめよ、と言います。
心にとめるとは、どうすることでしょうか?
ことばを声に出すこと。
それを書きとめること。
やりすごさずに、とどめて、たしかめることです。
私たちはふだん、「心にとめる」というと、そのつもりになることはできますね。
でも、そもそも、心に何かをとどめておくことはできません。
具体的な身体行為に変えて、いつも出せるようにしておくことが、心にとめることです。
パウロが挙げていることばは、どれも関連しています。
本当にそのように感じられるものどうしは、互いにつながっているからです。
真実とは、「はい、これです」といえるような、どこかにあるものではありません。
真実ということばによって表されるような、互いにつながった、心の体験が真実として「実を結ぶ」のです。
それは、くりかえし、くりかえし、ことばにしてとどまるもの。
ひとことずつ、声のことばにして、心につなぐ、具体的な方法(プラクティス)です。
事実は、文字でつくられます。
真実は、体験と、声のことばと、ふりかえる時間でてきています。
見えないつながりが感じられることです。
Whatever is true. Voice them.(すべて真実のことは、声のあることばに)
出典・参照:『新約聖書』『フィリピ人への手紙 4.8』
(*注1)ラテン語。ノースウェスタン大学、東京女子大学のモットーもこのことばから。
(*注2)エンパレット検索で、たとえば、「仏法、禅、道元、大和、仏教、じつは、ドラえもん] といったことばを入れてみてください。