Empathemian, Highway 35, Kansas City

昨日の朝、右の腿に突然の痛みが訪れた。眠っている間にやってきたのだろう。眠っている間も、寝返りが打てなかった。だが、心当たりがない。力をいれると激痛が走る。階段の昇り降りなど、一日かばって歩いているうちに、そのせいか、腿の真ん中にもピリピリと別の痛みがやってきた。神経痛だろうか。

長い時間続けて、物を書いているせいであろうか。そういえば、寺田寅彦の随筆にも、ほとんど瓜二つと思えるような一編があったことを思い出した。

「健康な場合には到底わからないことである。物の効用は、それが失われてみてはじめてよくわかる。 すわったり腰かけたりして、物を書こうとするとやはりこの筋肉がひきつって痛む。物を書くのには頭と眼と手だけでいいと思っていたのは誤りであった。書くという仕事にはやっぱり「腹」や「腰」も入用なのである。意外な「発見」であった。」

失うことは、まなぶこと。

なにひとつ、不用なものなどない。ふだん、Given「与えらたもの」として、考えることから、切り捨てているだけのことなのだ。想定内のものとしているから、気がつかない。失わなければ、わからない。

すべての痛みは、まなび。

それを思い出すのに、痛みはいちばん効き目がある。おかげで、身心ともにあることが思い出せる。

身心からだはひとつ。

道具も環境もふくめて、ひとつのじぶん。すべてが協力しあって、働いている。

じぶんに共感して、はじめて気づくこと。

出典:寺田寅彦『柿の種』