数学者・遠山啓さんと、ある高校生の往復書簡から、原文を抜き書きしてみます。
「一面識もない先生にとつぜんのお手紙をさし上げるのはなんとなく気がひけましたが、思い切って書きました。半年ばかりまえに、先生の講演をきいたことがあります。お話のなかで、先生がテストの点数なんかで人間のねうちをきめるのはまちがいだ、という意味のことを話されたのを覚えています。
ぼくは高校二年生です。ある悩みがあります。ぼくは生まれつきのろまなのです。何をやるにも人一倍の時間がかかります。ぼくはにんじんよりみじめだと思うことがよくあります。高校を出たら、どこか遠い田舎にある窯元をさがしだして、そこで修業したいのです。ご意見をお聞かせください。」
「大学生のころ、ぼくはライプニッツの「単子論」という本を読んだ。読み進んでいくと、「不可識別者同一の原理」というのにぶつかった。この世界にどうしても見分けのつかないものがあったら、それはじつははじめから同一のものである、ということだ。この世の中には完全におなじものは二つとない。何かハッと胸をつかれた感じがした。この広い宇宙のなかで、このおれはかけがえのない存在なのだな。いや、空間のなかばかりではなく、時間のなかでもそうなのだ。このことを君にも考えてもらいたい。」
「ご返事ありがとうございました。返事をくださるかどうか半信半疑の気持ちでいましたので、とてもうれしく思いました。ぼくは、人のいないところで、ひとりでそっと、いってみることがあります。
この宇宙のなかで、かけがえのない、このじぶん。
そうすると、不思議な喜びがからだの奥から湧き上がってくるような気がするのです。」
とても、心あたたまる、やりとりです。
「かけがえがない」とは、ふたつとない、ひとつしかない、という意味です。
だれも、じぶんの代わりには、(生きたくても)生きられません。
また、じぶんも、ひとの代わりに、生きることはできません。
よく、じぶんらしくあれ、とか、自然体であれ、と言いますね。
でも、じぶんらしく生きることが価値のあることだ、というふうに考えようとして、意識すればするほど、かえって、何をしていいのかが、わからなくなります。
もうすこし、気楽になれないものでしょうか?
オスカーワイルドのことばに、こういうのがあります。
Be yourself. Everybody else is taken.
じぶんのままでいい。他人にはなれないのだから。
こう言ってもらうと、なんか気持ちがやわらぎますね。
「あのさ、他の人になろうったってさ、無理だよ。全部「席」はみんなうまっちゃってるよ。
わるいけど、じぶんの席は、これしかないよ。それだけの話さ。」
ちょっと言い方を変えただけでしょうか?
いいえ、それだけではありません。じぶんの話からはじめない、ということが肝心です。
他者の存在によって、はじめて、気づかされるのです。
なんだ、じぶんはじぶんじゃないか、ということに。
それぐらい、自分第一、自分中心で構えることに、私たちは慣れきっていて、肝心なことを忘れてしまっているのです。
じぶんらしく、も何もないんですね、本当は。ほかのみんながあって、はじめてじぶんがある。
じぶん以外には、なりようがないよ、ということだけ。
そのじぶんこそが、不思議で、ありがたい。
ユニーク (unique) ということばがあります。
他におなじものがない、ひとつひとつが固有の、という意味です。
ユニークなアイディア、ユニークな人といった使い方をしますね。
日本語では、おもしろい、とか、変わっているといったニュアンスもありますが、ほかに代わりがない、たったひとつの存在を表すことばです。
無数のものごとがあるのに、じぶんは、たったひとつ。
じつは、すべてのものごとが、ユニークで、かけがえがないのです。
かけがえのない、ということばで、構える必要はありません。
むしろ、なんの変哲もない、ふだんあたりまえのように思っているものに、心を寄せてみることです。
だれも代わりにはなれないユニークな存在として、私たちは、いえ、すべてのものごとがつながっています。
そう思うと、さっきまで悩んでいたことも、ずっと和らいできます。
出典・参照:遠山啓『このかけがえのない、この自分』、英語トレイル 1 (23) Be true.