Empathemian『Seed your way』

We are one.(みんなで、ひとつ)

前回、Seed by Seed ③ [タネが育つ場]は、イエスのたとえ話でした。

タネは、どの土地にまかれるか、偶然が作用します。
たまたま、芽が出ないタネもあります。
でも、全体としてみると、どれが出てもよいのです。
粒はひとつひとつ別々だけれども、全体(仲間のタネといっしょ)でタネ。
「お前は芽がでたけど、オレはでなかった」というのではなく、チームプレイなのです。

物質をつくる素粒子、たとえば、光の粒もタネに似ています。
光も、ひとつひとつが粒のようにふるまう現象。
でも、粒に名前をつけてわける、というようなことはできません。
確率的な存在、みなといっしょ。

仏教哲学もまた、素粒子物理学と似ています。
タネの話はとても重要で、こんなふうに捉えます。(*注1)

私たちは、ものごとを因果関係で理解します。
「原因 A → 結果 B」 というふうに。
ところが、因果関係は、仮の設定にすぎない、といいます。

タネをまけば、未来に果を結ぶだろう。そう想う時、いまに「因」ができる。
タネをまいたから、果を結んだのだ。そう感じとる時、過去に「因」ができる。

現在しかないのです。
あくまで、仮の設定として「因果関係」がある。
人間の私たちが、そのような見方で生きている、ということ。

西洋哲学でも、おなじように捉えた人がいます。
イマニュエル・カントは、人間は「因果関係という形式によって世界を捉える」と言いました。
因果関係は、絶対的なもの、客観的なもの、ではない。
人間がそのようなフレーム(ものさし)で世界を生きているだけ。

では、仮の設定を、どのような意味で受け入れたらよいでしょうか?

・ねがうことに意味がある。
・決めつけてしまわないでよい。
・じぶんで変更できる。

ものごとを、わけへだてて、因果関係だけで考えてしまうのが、私たちのものの見方。
それを毎日の生活の中で気づかせてくれるのが、ことばのタネ、シードです。

ことばも、タネ。
じぶんの肉声でまくことばのタネ。
たくさん、まくことで、どれかが育つ。

あなたのシードもおなじです。
ひとつひとつ、ことばを声にする。
ひとつ、ひとつ、身につける。
そうするうちに、シードどうしがつながっていく。
ひとつ、育てば、全体も育つ。

Seed by Seed ⑤ [シードが育つとは?]へつづく

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Seed by Seed ② [声ことば、ひとつひとつが育つ]へもどる

Seed by Seed ① [プラクティスが生み出すタネ]へもどる

出典・参照:朝永振一郎『鏡の中の物理学』、竹村牧男『哲学としての仏教』、以下のエンパレットなど

(*注1)唯識論は、「種子」を説きます。植物の種子のように現象を起こさせる可能性、そのチカラ。

量子力学は、このように説きます。素粒子は、ひとつふたつと数えることができます。が、素粒子各々は、自己同一性をもっていません。つまり、別々の種としてわけられるけれども、ひとりひとりに名前はつけられない、と。

共に食べている [じぶんを見る目が変われば世界は変わる]

つぶのメタファ[くっきり見える]

思いのタネをまく ④ 手入れをすると、タネが芽生える。