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「意味って何?」の最終回は、[共感した時に意味ができる] というお話です。
『百人一首』にも選ばれている、有名な歌があります。
田子の浦に うちいでてみれば
この歌の意味は?
古典の教科書を思い出さずとも、また、ウェブで調べなくても、大体、見当がつきますよね。
田子の浦という場所から見える富士山。
富士山に雪が降っているなぁ!という歌でしょ、と。
挿絵の写真は、西伊豆の
田子の浦の沖から見える富士山に似ています。
ところで、この歌、なんか変だと思いませんか?
「雪は降りつつ」」とは、「いま雪が降っている」ことです。
そのような景色は、現実にはありえませんよね?
雪の降る日を思い浮かべてみてください。
雪の天気では、まわりは曇っていて遠くの景色は見えません。
富士山の頂上に降っている雪を、遠く離れて下から眺めるわけにもいかないでしょう。
肝心の富士山が視界にないとしたら、なぜ「雪は降りつつ」なのでしょうか?
作者の山辺赤人は、都から東国へ向かう旅路にあります。
富士山は路の途中で、すでに見ていたのではないでしょうか?
田子の浦についてから、突然、何に感動したのでしょうか?
ちょっとした、ミステリーのようです。
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実は、この歌は、改変されていることが知られています。
山部赤人作オリジナル(万葉集、奈良時代後期)
田子の浦ゆ うちいでてみれば
アレンジされた作品(新古今和歌集、鎌倉時代初期)
田子の浦に うちいでてみれば
元の歌は、「雪は降りつつ」ではなく、「雪は降りける」です。
田子の浦から海原に出てみると、「あ、雪が降ったんだ」と歌っています。
雪をかぶった富士山の勇姿がくっきりと目に入った瞬間。
素朴な、発見の喜び。
ふだん、私たちは近くのものを見ています。
また、人と話をしたり、何かをしています。
富士山のような巨大なものでも、気づかずにいます。
物理的に、視界が開ける時。
また、精神的にも、ゆとりができる時。
あたかも、いま、突然現れたかのように、大きな山が現れた情景。
それが元の歌です。
一方、後から改変された歌は、いま見えている富士山ではありません。
田子ノ浦で見える、雪がふっている、想像上の富士山です。
心の風景を歌った、別の作品です。
おなじ場所で、おなじ富士山の姿を体験してみると、気づくことがあります。
それは、古典の対訳を読み、文字で意味を知ろうとする時にはなかったものです。
① そこにある、大きなものなのに、ふだんは見ているようで、実は見えていないこと。
② ふりむいた時に、ハッとするような驚きがあること。
③ 作者の体験に共感したことで、長年ことばの意味だけは知っていたつもりの歌との新しいつながりができたこと。
おなじ体験をすることで、見えるものが変わります。
共感の力ほど、学びを牽引してくれるものはありません。
ものごとの意味とは、じぶんとのつながりにあります。
共感した時に意味が生まれるのです。
Invisible things are the only realities.(見えないものだけが真実の姿)
出典・参照:『万葉集』『新古今和歌集』、以下のエンパレットなど
心の世界は五感を結いあわす[さかさまにすると誤解にも気づく]
Fun to Imagine (6)[セミの声で浮かび上がる土の世界]