Empathemian『Have skin in the game』

Put skin in the game.(身をもってせよ)

エサをじぶんで探さないリスがいたとしたら?
それでは、Skin in the game ではありません。
もちろん、そんなリスはどこにもいないでしょう。

自然界では、あたりまえのことなのですが、
人間の頭の中は、もっと複雑なようです。

本来、むずかしい説明はいりません。
身をもってすることと、そうではないことのちがい。
じぶんのこととして、親身になってするのと、そうではないことのちがい。

明らかなはずなのに、その説明はむずかしくなるのは?
いったい、何が、どうちがうのでしょう?

身近なところから考えてみましょう。

クイズとパズルのちがいは何でしょう?

・クイズは、知識で答えられる(答えを知っているかどうか)

・パズルは、やってみないとわからない(やらないと意味がない)


Empathemian『What IS / is NOT Skin in the game』

人生は、クイズではありませんね。
決まった答えを他人から教えてもらうことが生きることではないはず。
パズルのように、試しながら、生きてみることです。

ナシム・タレブさんは、こう言います。

「商売でアドバイスをする人にたずねても、そのアドバイスでその人の腹が痛まない限り、本当の価値はない。」

もちろん、いつも、アドバイズに意味や価値がないのではありません。
役に立ってくれるアドバイズは、いくらでも、あるでしょう。

でも、未知のこと、すなわち、じぶんのこれからを方向づけることについて、
身をもって、親身になってくれるアドバイズでなければ、それほどの助けにはならないでしょう。

つまり、Skin in the gameか、どうか、です。
「胸も腹も痛まないこと」は、何かがちがうのです。

じぶん以外の、大勢の人の、過去のデータにもとづくことは、何が損か得かの一般論です。
じぶんの未来は、他人の過去に起こったことの再現になるとは限りません。
そして、じぶんの未来にむけて、どう行動したらよいか?
言い換えれば、どのようなリスクをとるか?
それは、Skin in the game(直接ふれて、身をもってやっていること)でなければ、わからないのです。

Without skin in the game, we fail to get the Intelligence of Time. (身をもってでないと、じかんの知恵が活かせない)

身をもってして、痛むことがあるからこそ、じかんの知恵(未知にむきあう方法)になります。
心が複雑なままでは、覚悟は決められません。
未知のことはだれにもわかりません。
胸も腹も痛まず、身にもつまされないことでは、大切さの度合いをじぶんでたしかめることできないのです。

身をもってする(Skin in the game)心得と行動は、自覚のフィルターです。
じぶんはもちろん、他者がどれだけ親身であるかどうかは、そのフィルターによって、後からわかるものです。

「身につける ③ 実は見えないルールがある」へ

「身につける ① 真髄(肌身の感覚)」

出典・参照: Nassim Nicholas Taleb 『Skin in the Game: Hidden Asymmetries in Daily Life』

以下のエンパレットなど

3歳の心にも「このことば」は響く

Less is More (9) アロス・ア・バンダ(絶品の秘密)

コミットメントとはじぶんと結びつけること