Empathemian『Sunnyvale, California』

新渡戸稲造『修養』の一節に、こうあります。

「人生の目的は何だと思うか」と聞かれたことがある。僕は、あること (to be) で、なすこと (to do) は第二義であると言った。」

to do (すること)よりも、to be (なること)。

修養とは、何をせよ、何をするなという個別のことよりも、「修養する人」になろうとすることです。
そして、それをいつもねがう心をもっていることです。その、心の向きを保つこと、それを確かめることが修養なのです。

・何をするかよりも、どのようにあるかの姿勢。
・何をしたかではなく、どのようにあったか。

おこないは、姿勢からしぜんに生まれてきます。

別のエンパレットで「習慣づくりとねがい」の関係について書いてみました。

「習慣:いちばん肝心なこと ② ねがい」へ

「流れ星とねがい ② 」へ

実は、習慣づくりは、じぶんという人間のIdentityにかかわることです。
どうありたいかという心がじぶんのおこないの方向づけになり、日々の継続を支えてくれます。
よい「習慣をつくる」とは「修養する人になろうとするねがい」の中にあることなのです。

だから、じぶんをふりかえる、とは、何をしたかよりも、じぶんはどのようにあったかの姿勢を、じぶんで確かめることです。

・何をしたか?だけではわからないことがある
・何かを得る目的だけでは、姿勢は映らないものがある

エンパシームは「姿勢の鏡」になります。
ふだんのじぶんの姿も写して、ふりかえり、たしかめる手助けです。ひとことを声にしてください。

Be a doer.(姿勢をもとう)

Be a practitioner.(修養する人になろう)

・どんなに短い時間であろうとも、その時間が修養。
・どんなにささやかな場であろうとも、その場が修養。

「修養あるものは地昧で、人目に立たぬかも知れぬが、己に省みて、修養のない人が到底遠く及ばぬ安ずる所がある。」

毎日続けているから、ねがいを忘れることはありません。それが、安心や自信を与えてくれます。

念ずれば、花ひらく。

「水にうつる月のように」へ

出典・参照:新渡戸稲造 『修養』

新渡戸稲造