新渡戸稲造『修養』の一節に、こうあります。
「人生の目的は何だと思うか」と聞かれたことがある。僕は、あること (to be) で、なすこと (to do) は第二義であると言った。」
to do (すること)よりも、to be (なること)。
修養とは、何をせよ、何をするなという個別のことよりも、「修養する人」になろうとすることです。
そして、それをいつもねがう心をもっていることです。その、心の向きを保つこと、それを確かめることが修養なのです。
・何をするかよりも、どのようにあるかの姿勢。
・何をしたかではなく、どのようにあったか。
おこないは、姿勢からしぜんに生まれてきます。
別のエンパレットで「習慣づくりとねがい」の関係について書いてみました。
実は、習慣づくりは、じぶんという人間のIdentityにかかわることです。
どうありたいかという心がじぶんのおこないの方向づけになり、日々の継続を支えてくれます。
よい「習慣をつくる」とは「修養する人になろうとするねがい」の中にあることなのです。
だから、じぶんをふりかえる、とは、何をしたかよりも、じぶんはどのようにあったかの姿勢を、じぶんで確かめることです。
・何をしたか?だけではわからないことがある
・何かを得る目的だけでは、姿勢は映らないものがある
エンパシームは「姿勢の鏡」になります。
ふだんのじぶんの姿も写して、ふりかえり、たしかめる手助けです。ひとことを声にしてください。
Be a doer.(姿勢をもとう)
Be a practitioner.(修養する人になろう)
・どんなに短い時間であろうとも、その時間が修養。
・どんなにささやかな場であろうとも、その場が修養。
「修養あるものは地昧で、人目に立たぬかも知れぬが、己に省みて、修養のない人が到底遠く及ばぬ安ずる所がある。」
毎日続けているから、ねがいを忘れることはありません。それが、安心や自信を与えてくれます。
念ずれば、花ひらく。
出典・参照:新渡戸稲造 『修養』